第七話

 降り続いていた雨はすっかりと鳴りを潜め、からりとした強い陽射しが空から降り注いでいる。
 梅雨が明けた。

 あの日から、立花のことを考える日々が続いている。
 彼女は呪術師として生きる明確な理由を持っていた。そしてそのために日々努力を積み重ねているのだと知った。
 少しでも自分と同じような人を増やさないため。そう呟いた彼女の瞳は、やはりいつものように真っ直ぐと、惹き込まれてしまいそうなほど強い眼差しで明日を見据えていた。
 おそらく彼女は近いうちに、準二級呪術師に上がるだろう。先日の一件は彼女の評価を上げるきっかけになったのだ。それは彼女の中にある明確な理由のために日々努力し続けている結果でもあり、そのひたむきな姿に彼女の印象は周りからもとても良く思われている。そしてそれは例外なく、私にも言えることであった。
 鋭いなにかが、胸の内に刺さったような感覚であった。彼女の理由は、もはや理想像とも言えるだろう。呪術師という明るくない世界に身を置きながら、折れることなく向かい合う姿勢は、やはり目が眩むほど美しい。その眩しさが、少し前の春の事件から揺らぎ始めていた自分の感情に突き刺さったのだ。もはや痛みを感じるほど。
 弱き者を救うため、強者しての責任を果たす。そんな自分の中にある理由に疑問を抱き始めた自分と、その意志をぶれることなく抱いている彼女。いつか、彼女も同じように悩む日が来るのだろうか。いや、そうならないためにも私は私のやるべきことをしていくべきなのだと思う。
 あの梅雨の日から、私はずっと彼女に焦がれている。まるでその姿は、美しく眩しい彼女に自分が縋っているようにも見えた。


*  *  *


「梅雨が明けたのはいいけど、また任務漬けかよ」
「今日は早く終わったし、まあいいじゃないか」
「いやまあそれはそうだけど……ってかなんか傑、最近いいことあった?」
「随分急だね……どうして?」
「いやまあなんとなく?」

 三人での任務のあと、車から降り立った悟はずかずかと石畳の上を歩きながらそう言った。その空気は以前と変わらないようにも見えるが、全く同じと言いきれないと感じているのは私だけなのだろうか。悟の言葉は本当にそう思ってなのか、はたまたそうでなくなにかを誤魔化そうとしているのか、その本心は見えない。しかし彼の言葉に思い当たるとしたら立花のこと以外浮かばなかったが、それほど態度に出していたつもりもなかった。
 すると、隣にいた硝子が黙ったまま私を見上げた。なに? と視線で訴えかけるように目を合わせれば、彼女は答えることなく視線を前に戻す。その行為が、まるで彼女に私の思考が筒抜けになっているように感じ、嫌な緊張が走る。

「アイツらも任務だったのか」

 悟の声に釣られるようにして顔を上げれば、そこには灰原たちがいた。分かれ道で補助監督と挨拶をしたのち、三人でなにかを話し込んでいる。そのうちの七海は一番に私たちの存在に気付いたようで、こちらを見た瞬間顔を顰めた。

「んだよその顔」

 悟は更に歩幅を大きくしてから、三人の輪の中に遠慮なく割り込んでいく。その様子を眺めながらゆっくりと近付いていけば、隣にいた硝子が、「文乃だろ」と突然彼女の名前を口にした。

「なんの話?」
「さっきの五条が言ってた機嫌の話」
「そんなつもりはなかったんだけど、どうしてそう思った?」
「たまたま見たの」
「なにを」
「夏油が文乃を誑かしているところ?」

 足を止め、隣に視線を下ろした。硝子もまた、感情の読みにくい視線を私に向けている。

「人聞きが悪いね」
「実際そうなんじゃないの?」
「…………」
「あの子はお前と違って真面目だよ」

 同性同士、それなりに交流はあるのだろう。硝子は少々棘のある声音で呟いた。
 脳裏に浮かび上がったのは先日立花から聞いた過去の話と、あの雨の日の出来事であった。彼女が真面目なことは、もう痛いほど理解している。それを理解した上で、その眩しさに引かれて口付けを落としてしまっただなんて言ったら、おそらく隣にいる彼女は私のことをクズだと言うだろう。私自身、否定することも出来ないが。

「わかっているよ」
「うそくさ」
「誑かしているつもりはない」
「……本気だってこと?」

 否定も肯定もせず、視線を再び硝子に向ければ、彼女は先ほどの七海と同じように顔を顰めたあと、「最悪の男に好かれたな」と小さく呟いた。失礼だなと思ったが、悟が足を止めたままの私たちを不審に思ったようで言うのはやめた。

「なんの話?」
「いや、なんでもないよ」
「……ふーん」
「いい加減離してもらえませんか」

 腕を肩に回された七海がうんざりとした表情で悟を睨み付けている。その表情が返って彼を煽っていることを理解しているのかそうでないのかはわからないが、案の定悟はより一層力を込めた。一方その傍らで、灰原は元気よく私たちに挨拶を告げる。

「お疲れ様」

 自ずと視線は灰原の背後にいる立花へと向けられた。硝子が投げかけた言葉に彼女は少しだけ体をずらしてから、私たちに向かって会釈をする。そして私も、「お疲れ様」といつも通りに挨拶を告げれば彼女は小さい声で、「夏油先輩もお疲れ様です」と返すと、一度視線を地面に下ろしてから再び口を開いた。

「それと、おかえりなさい」

 ああ、確かに、私は立花のお陰で簡単に機嫌が良くなってしまうのかもしれない。少しだけ照れたように視線を逸らして呟く姿は、あまりにも可愛らしくて、そしていじらしい。今までのつんとした表情からは想像がつかないほど、素直で真っ直ぐな彼女の姿にゆっくりと私の心は彼女に奪われていく。

「……は」

 傍にいた悟が驚いたように声を漏らした。そしてその隣にいる七海も、同じく驚いたように目を見開いている。そういえば、悟に立花とのことを未だ話していなかったのだと、今この瞬間に思い出した。

「ただいま。その様子だと順調に終わったんだね」
「はい、今日は三人一緒だったので」

 先日は一人で彼らのことを待っていたからか、その声はいつになく嬉しそうだ。少し妬けたが、今この瞬間私は特に機嫌が良い。笑みを崩すことなく「嬉しそうなのが顔に出てるよ」と茶化すように言えば、彼女はぱっと両手を頬に添えて顔を赤くさせた。

 悟からは突き刺さるような鋭い視線が注がれている。そして隣にいる硝子は呆れたようにため息をついた。これはあとで二人になにか言われるだろうな。おそらく立花も、七海あたりにはなにかを聞かれるかもしれない。秘密にしていたわけでもないが、約一ヶ月間密かに行われていた二人だけの会話を、出来事を、このまま私たちだけのものにしておきたかったと心の片隅で思った。
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