第四話

 立ち上る土の匂いと、じめじめとした湿った空気。
 東京に梅雨が訪れた。

 六月二〇日。
 三級呪霊討伐任務に一人赴いた立花と、連絡が途絶えたらしい。普段は同期である灰原や七海と共に任務に就くことが多いが、今回は三級であったことと、各地で立て続けに呪霊が発生したせいで、別々の任務を与えられたという。

「連絡が付かなくなってどれくらいですか?」
「既に一時間は経過しています」
「わかりました」

 山奥のトンネル付近。
 応援連絡が入ったのは、付近での任務に就いていた私だった。立花が踏み入れた帳の前に立ち、彼女との任務に就いた補助監督といくつかの確認をしてから帳の中へ足を踏み入れる。
 そこは夜のようにひっそりと冷たい。今にも雨が降り出しそうなほどの曇り空だったからか、中は普段より更に暗く見えた。

「っ……」

 両足を踏み入れ、思わず足を止めた。なぜなら、想像よりもずっとおぞましい景色が広がっていたからだ。
 なぎ倒された木々。彼女によって祓われたであろう何体もの呪霊の残穢。アスファルトの上には、黒くどろどろとしたなにかが水溜まりを作っている。思わずひゅっと、息を呑んだ。
 もし、彼女が死んでいたら。
 そんな最悪な状況を想像してしまうほどには、酷い有様だった。
 ぽつり。黒い空から雫が落ちる。その瞬間、鈍く大きな音が響いて、微かに地面が揺れ動いた。慌てて音がした方の森の中まで走れば、そこにはなぎ倒された大きな木と、両の手に呪具を握った立花の背中。

「立花!」

 彼女の肩がぴくりと揺れる。そしてゆっくりと濡羽色の髪を揺らしてこちらを振り向くと、その隙間から呪霊だったものが横たわる姿が見えた。残穢とこの状況から見るに、敵が明らかに三級呪霊でないことなど誰が見ても分かる。彼女は、無事に生きていた。

「夏油、先輩……」

 立花は少しだけ目を見開いたあと、すっと目元を和らげた。微笑みにも似たその表情は、酷く痛々しい。

「怪我は」
「……酷くは、ないです」
「それは君が決めることじゃない」

 失礼。と断りを入れてから、立花の全身をくまなく見入る。確かに傷は数え切れぬほどあるが、これならば硝子に任せれば消えるだろう。ほっと、息を吐き出した。

「連絡が途絶えたから、急遽私に連絡が来たんだ」
「すみません……携帯、壊されてしまって」

 制服のポケットから取り出されたのは、携帯電話だったもの。折りたたみ式のそれは上下ばらばらになってしまっていて、画面は真っ暗なままである。
 ぽつりぽつりと、次第に雨粒が大きくなっていく。濡れた地面からは噎せ返るような嫌な匂いと、土の匂いがした。

「立花、一旦道路まで戻ろう」

 雨から逃れるように、駆け足で森の中を潜っていった。次第に見えてきた、トンネルへと続く道。そしてトンネルと帳の、丁度あいだ付近にある屋根付きのバス停に、二人でなだれ込むように駆け込んだ。

「そこ座って」

 二人並んでベンチへと座り、私はもう一度立花の傷を見る。彼女は黙り込んだまま、少しだけ俯いていた。
 外はざあざあと本格的な雨が降り始め、髪も制服もびしょ濡れになってしまった。なにより、所々破けた制服から覗く傷が痛々しい。それでも彼女は表情を変えることなく、降り続ける雨が地面へとぶつかる様を見つめていた。
 屋根の隙間からぽちゃん、と雫が落ちる。「とりあえず、このまま帰れる?」と尋ねれば、彼女は静かに頷いた。

「三級呪霊討伐のはずだっただろう」
「…………」
「違うのはあれだけだった?」
「……もう一体、いました」

 ぎゅう、と立花が拳を握ると、強い眼差しで地面を見入った。まるで何かを思い出すように、じっと。

「立花が、無事でよかった」

 紛れもない本心だった。思い出したのは、少し前の春の日に起きた出来事のこと。思わず言葉を零すように呟けば、彼女の瞳が私を捉える。
 頬に出来た傷からは、雨に濡れたせいで再び血が滲んできていた。こんな状況であるのに、いやこんな状況であるからこそなのか、私はその姿を美しいと思った。こんな血生臭い世界で傷を負って血を流しても、真っ直ぐ前を向いている姿が、ただひたすら儚く、美しく見えた。

「……え」

 気が付いたら、立花の顔を覗き込むようにして、唇を重ねていた。彼女は驚いたように目を見開いて、固まったまま私のことを見つめている。

「ごめん……怒ってる?」
「……怒って、ない、です」

 ざあざあと降り続ける雨音が、少しずつ遠ざかっていくような気がした。目と目が合って、再び鼻がぶつかる。もう一度、その柔らかな唇を確かめるように口付けを落とした。

「げとう、せん……ぱい」

 いつもの透き通るような凛とした声ではなく、そっと花が開くような、柔らかい声が私の名前を呼んだ。
 じりじりと、心臓が焦げるようなにおいがする。私は自分で思っていたよりも、立花に焦がれていたらしい。たった今、そのことに気が付いた。

「立花のこと、もっと知りたいって言ったら、許してくれる?」
「……えっ、と……」
「今まで通りでいい。ゆっくりでいいから、答えたいと思ったことを教えて欲しいんだ」

 立花は静かに頷いたあと、悴んで薄らと赤くなっていたはずの指先が白くなるまで強く拳を握った。私はゆっくりとその拳の上に手のひらを重ね、力がこもりすぎた手を解く。すると俯く睫毛が少しだけ震えて、彼女の瞳が私を捉えた。その瞳は薄らと潤んでいて、困惑した表情を浮かべている。
 雨音でかき消されてしまったけれど、確かにその瞬間、私の心臓ははじめての音を立てた。
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