第十八話

 愛する人の残穢を見た。間違いなかった。忘れるはずがなかった。わたしはまるで息を奪われてしまったかのように苦しくなって、誰かに操られてしまったかのようにその残穢を追い続けた。感情も思考も、全て置いてきて、無我夢中で走り続けた。しかし、最愛の人に出会えた記憶はわたしには残ってはいなかった。


 もう、何度あの夢を見ただろうか。酷く息苦しくて、しかし堪らなく愛おしかった日々。忘れたくないと願い、そしてその願いを叶えるように何度もわたしの夢の中に現れて、わたしの心を奪っていったあの日々と彼。
 最後にはこうして必ず、いつの間にか零れた涙を拭いながら起き上がるのが常であった。意識のある内はあの日々を思い出してももう泣かなくなった。それはもう既に枯れてしまいそうなほど泣いたのもあるけれど、彼の前以外では泣きたくなかったからでもあった。涙一つですら、誰にも渡すことが出来なかった。
 視界に真白の空間が映った。白い壁、白いベッド、白いカーテン。ここは病院だろうか。しかしその真白の空間の中で、わたしは窓際のテーブルの上に置かれた一輪の紫陽花に目が止まった。
 なぜだかわからないけれど、まるで時が止まったかのようにわたしはそれから目を離せなくなった。花瓶に挿すこともせず、横たえられているからだろうか。それとも、あの夢を見たからだろうか。

「文乃……?」

 ハッとした。声をかけられるまで、扉が開けられたことにも気付かなかった。意識を戻し、声がした方を見遣れば、扉に手をかけたまま立ち尽くす五条先輩の姿。その表情は目元を包帯で巻かれているためはっきりとはわからないけれど、声音は酷く慎重で驚いているように聞こえた。

「……五条、先輩」
「いつ目が覚めた」
「たった今、です」
「……そう。眠る前のこと覚えてる?」

 わたしが眠っていた場所は高専の医務室ではなかった。窓から見える景色からするに、おそらくそこからほど近い病院であるだろう。正直なところ、わたしははっきりとここに来るまでのことを理解しきれていなかった。
 黙りこくるわたしに、五条先輩は少しだけ長く息を吐き出した。そして、「一ヶ月も眠り続けてりゃ、そりゃわからなくもなるか」と独り言のように呟いた。

「……一ヶ月?」
「そう、一ヶ月」
「…………」
「傑の残穢を見たんだろ?」

 途端に、心臓の奥がざわめいた。「どうしてそれを」と掠れた声で呟けば、「お前を助けたのは傑だよ」と彼は酷く淡々とわたしの問いに答えた。

「傑の残穢を追いかけて、夢中になって、他の呪霊の存在にも気付かずやられかけるなんて……あいつがいなきゃ今頃お前は死んでたよ」
「わたしを、助けた……」
「あいつからお前を引き取ったのは僕。そんでここは高専の近くの病院。硝子にも見てもらったけど特に呪力の影響はないからここに移した」

 後半は上手く聞き取ることが出来なかった。つまりわたしが今生きているのは彼のおかげで、彼がわたしを助けた。彼は、わたしが残穢を追っていたことにも気付いていたということだろうか。そして襲われたことに気付いて、わたしの元まで戻ってきたということだろうか。

「ねえ、聞いてる?」
「……あれは、」
「あれ……? ああ、紫陽花? あれは……気が付いたら置いてあった」
「五条先輩じゃ、ないんですか」
「僕だったら花瓶に挿すね」

 窓際に置いてあるその紫陽花には、微かに水滴が付着していた。時刻は午前十時頃。ということは、朝方誰かがここに置いたということだろうか。

「毎日ではないけど、三日に一度くらいで変わってる」

 それほど何度も、ここに来ている。
 わたしは再び横たえられた紫陽花から、目を離すことが出来なくなっていた。自惚れではない。確実に、これを置いたのは彼だ。そして五条先輩もそれを理解して知らないと言い続けている。
 じわりじわりと理解が追いついて、息が詰まった。もう溢れ出ることはないと思っていた感情が、再び瞼から零れ落ちそうになる。嫌だ。もう、拭ってくれる彼はわたしの目の前にはいない。他の誰にもその権利を明け渡すこともしたくない。

「五条先輩、」
「なに?」
「少し、一人になってもいいですか……」
「……わかったよ」

 五条先輩は少し間を開けてから返事をしたあと、「なにかあったら呼んで、まだいるから」と静かに扉を閉めた。再び部屋中が静寂に包まれる。わたしはベッドから起き上がり、窓際に置かれた紫陽花を手に取った。

「すぐる、せんぱい……」

 名前を口にしただけで、心臓が締め付けられたように苦しくなった。わたしに残った傷は、何年経っても癒えることはない。外傷はなにもなかったように出来ても、心の傷はなかったことには出来ない。そしてそれは、これからも。しかし、それでよかった。わたしは彼を忘れることも、思い出にすることもしたくなかった。この傷が痛むことは、わたしにとって彼を忘れず愛していることの証に近かった。
 彼と離れてしまった日から、高専内のあの紫陽花が咲く場所には訪れていない。なぜならあの場所は本来は彼のもので、わたしは彼と最後に紫陽花を見たあの日、独り言のように誓ったからだ。
 ふと、時計の下に貼られたカレンダーを見た。そこにはマルとバツが数字の上から重ねるように書かれていて、バツが二つ並んだあとにマルが一つ。大体はそのサイクルで印されていた。五条先輩が言っていた通り三日に一度紫陽花が置かれていたとするならば、マルがその日で、バツは何もなかった日であろうか。しかし最後にマルがついているのは七月七日で、そしてその前日にもマルがついている。スマートフォンの画面に表記されている日付は七月七日であった。

「っ、」

 蘇ったのは、愛に溢れた夏の夜だ。あの日は七夕ではなかったけれど、確かに眩しいほどの天の川が存在していた。七夕伝説。それになぞられるようにわざわざ二日続けて置かれた手元にある紫陽花に、わたしは思わず唇の隙間から吐息が零れた。
 一年どころか、もう何年も会えていないですよ。
 今すぐそう言いたくて堪らないのに、それを言うことすら叶わない。しかしわたしは今、悲しみよりも喜びのほうが強かった。彼もまた、わたしを忘れないでいてくれたこと。わたしのために何度もここを訪れているということ。そしてなにより、わたしの命を彼が救ったということ。
 とても大きな事実だ。今わたしがこうして息をして、彼を想って生きることが出来るのも、彼のおかげなのだから。そしてその事実は彼への想いに拍車をかける。何年経っても変わらず、いや日を増すごとに彼が愛しい。この感情はおそらく、わたしにとって最初で最後の経験なのだろう。
 彼が送ってくれた紫陽花はとても美しかった。けれど、どうしたって二人で見た紫陽花に勝ることはなかった。あの日々、あの景色を美しいと思えるのは、傑先輩が隣にいたからだ。
 苦しくて、彼を忘れたいだなんて思ったことはただの一度もない。出会わなければよかっただなんて、もっての外だ。わたしは彼と出会えたことが、彼と過ごした日々が、大切で愛おしくて堪らない。わたしはこれからも、彼を想いながら生きていく。

 どうか彼が、これからも健やかにいられますように。わたしはそう願いながら紫陽花を胸に抱き、心の中で彼の名前を呼んだ。
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