第十六話

 わたしたち同期三人に名前をつけるとすれば、なにが一番適切なのだろうか。ただの友人、では幾らか寂しい気持ちになった。そんな気持ちでさえも、わたしにとってははじめてのことであった。夏は、より一層眩しさを増していく。二人と出会ってから一年と数ヶ月の時間が過ぎた。

 寮にはいくつか空き部屋がある。そこには家具や物は最低限でなにもないけれど、三人で集まる分にはちょうど良かった。各々で用意したものをローテーブルの上に並べ、囲むようにして座る。少し前にエアコンをつけたお陰で室内は随分と涼やかであった。
 ローテーブルの真ん中には大きな器が置かれ、その中には素麺が盛り付けられていた。そしてわたしたちの目の前には各々使用する箸と、つゆが入ったガラスの器。たくさんの氷が入ったグラスにピッチャーで作られた麦茶を注げば、その温度差にパキパキと氷が小さく音を立てた。

「夏だねー」
「茹ですぎじゃないのか?」
「これくらい食べれるでしょ」

 灰原くんが茹でてきた素麺を見て、七海くんはげんなりとした表情を浮かべた。本当に食べられるのだろうか。そう思ってしまうほどには、目の前に盛られた素麺は尋常ではない量であった。

「いただきます」

 三人で揃えようと思ったわけでもないのに、偶然にもその言葉は重なった。丁寧に三人とも手を合わせ、そのあとに目の前にある箸を手に取る。今日の箸置きは以前の任務時にお土産として三人で購入したものであり、わたしのお気に入りのものであった。
 順番に素麺を箸ですくい、つゆに浸して音を立てて啜る。つるりとした細い麺は暑い夏の日でもするすると食べることが出来た。

「こういうのって、」

 すると突然、灰原くんが食べる手を止めて口を開いた。わたしと七海くんも素麺をすくう手を止め、彼の方に視線を向ける。彼はローテーブルの傍らに置いてあるリモコンをじっと見つめていた。

「暑い時に食べるからいいんじゃないのかな」
「わざわざ部屋を涼しくさせたのにか」

 再び七海くんは眉を寄せた。一方灰原くんは清々しいほどの笑みを浮かべていて、「立花はどう思う?」とわたしを見遣った。

「……わからなくは、ないけど」
「ほらね?」
「はあ、勝手にしろ」

 七海くんのその言葉に、すかさず灰原くんは傍らのリモコンを手に取って電源を落とした。途端に低く唸っていた音は止み、冷たい空気も流れてこなくなる。今はまだ暑いとは感じないけれど、もうしばらくすればじっとりとした暑さがわたしたちを襲うだろう。
 灰原くんはそのまま立ち上がると、窓際に寄って窓を開けた。緩やかに流れるのは先ほどよりもぬるい空気であったけれど、我慢出来ぬほどではない。ちりん、と窓枠にかけた風鈴が静かに音を立てる。この風鈴は灰原くんが自室から持ち出してきたものであった。

「良くない?」
「……まあ、悪くない」
「七海は素直じゃないなあ」

 彼らのやりとりも見慣れた日常になっていた。二人の性格は違うけれど、互いの気はあっているのだと思う。傑先輩と五条先輩のような関係性とはまた違った、けれど親友のようにわたしの瞳には映って見えた。

「明日も頑張ろうね」

 わたしの言葉に灰原くんは笑顔で頷き、七海くんもまた目を少しだけ和らげて頷いた。明日の任務はそれほど難しくない予定であるが、いつもよりも少し遠出する任務であった。

「なんかだんだん暑くなってきたかも」
「はぁ……言わんこっちゃない」
「任務の前に夏バテにならないように気をつけなきゃいけないね」

 それでも頑なにエアコンを付けたがらない灰原くんに、痺れを切らした七海くんは部屋から扇風機を持ってきた。ゆるりと首を振り続けながら風を送る扇風機のお陰で、その部屋は先ほどよりも幾分涼しくなった。他愛もない会話や、明日の任務について話し合いながら三人で素麺を食べていたが、結局全てを食べきることは出来なかったので、また明日食べる時間があれば三人で食べようということになった。


*  *  *


 灰原が殉職した。
 その言葉を聞きつけて、私は急いで後輩三人の元へ向かっていた。照り付ける陽射しと蝉の鳴く声。真夏日の中を走り続けているのにもかかわらず、私は寒気で震えてしまいそうであった。悟は彼らの代わりにその任務を引き継いだ。
 部屋の扉を乱暴に開け、まず目に飛び込んだのは横たわる灰原の姿と目元を隠し足を投げ出す七海、そして立ち尽くす文乃が扉の開く音で私の方へと振り返った姿であった。

「傑、先輩……」
「二人は……」
「わたしたちは、なんとも」

 明らかになんともと言える状態ではなかった。しかし文乃はそんなことよりも、目の前で横たわる灰原に視線を向けてその場を動こうとはしない。また七海も終始無言のままだ。
 私は暫し二人と同じように呆然と立ち尽くし、横たわる灰原を見つめた。その瞬間に、彼と最後に交えた会話が蘇る。二級呪霊討伐の任務では、なかったのか。しかし、実際の等級が異なった事例はいくつもある。去年の文乃も同じ例だ。呪霊は呪いが強まるごとに強さを増す。私たちはそういう世界で生きている。
 酷く息苦しいほどの静寂であった。外は今でも蝉の鳴く声が響き渡っているはずなのに、この部屋だけはまるで夏に取り残されてしまったかのようになんの音もしない。しばらくして七海の口からは、自らでは噛み砕くことの出来ない悲痛な感情を言葉にして漏らした。文乃もまたその言葉に強く拳を握り、小さく肩を震わせた。

「二人とも、今はとにかく休んで」

 灰原の姿を隠すように、私は彼にかけられた布を頭上まで覆い被せようとした。しかしそれを阻むように、隣にいる文乃がぐっと私の腕を掴む。その力はあまりにも弱く、簡単に振り解けてしまいそうであったが、彼女にとってはそれが今の精一杯の力なのだと僅かに感じる震えで理解した。

「文乃」
「っ、」

 姿が見えなくなったあと、彼女は私の腕から手を離して再び握り拳を作った。堪えるように唇を噛んでいるが、その瞳に涙は浮かんでいない。二人はしばらくその場から動こうとはしなかったが、別の人間が部屋へと入ったことにより無理やり部屋を追い出される形となった。

「七海くん、」

 覚束無い足取りで扉の前から立ち去ろうとした七海を、か細い声で文乃は引き止めた。呼ばれた彼は、無言のまま文乃の方を振り返る。

「……わかっている、あの約束だろう」
「……うん」
「でもまだ、果たせそうにない」
「……それも、わかってる」

 それは私の知らない約束であった。しかし彼らには確実に意思は伝わっているようで、感情が欠落してしまったような表情ではあるが、その瞳はしっかりと互いに向き合っていた。おそらく、三人で交わした約束があるのだろう。それは私が踏み込んではならない三人の領域であった。
 しばらくすると、七海は再び歩みを進めた。しかしその足取りは酷く重く、そしてあまりにも不安定である。私は未だ立ち尽くす文乃の腕を引いて、彼女の自室の方へと向かった。

 文乃の部屋は何度か訪れたことがあった。私は彼女から鍵を受け取り、扉を開けてから彼女の背に手を添えて中へ入るように促した。

「傑先輩、」
「ん?」
「少しだけ、一緒にいてください」
「……わかった」

 私は文乃の手を引いてゆっくりと部屋の廊下を進んだ。服も体も見るからにぼろぼろではあったが、それを痛がっている様子は見られない。部屋の中はこもった空気に包まれていて蒸し暑く、カーテンも閉め切られているせいか酷く閉鎖的な空間に思えた。

「座る?」

 無言で頷く文乃の手をとって、私はカーペットの上にあぐらを組んで座ると、その上に彼女を座らせてその身を抱きすくめた。彼女は私の服をきゅっと弱い力で握るだけでなにも言わない。しかし私がそっと彼女の背を撫でた時、少しだけ肩が揺れ、そしてそのあと小さく堪えるように息を詰まらせた。

「文乃、誰も見ていない」
「っ……」
「ここにいるのは私だけだ」

 その言葉にようやく彼女は声を上げて泣いた。その苦しげな声に、服に滲む温度に、私はぎりぎりと心臓が締め付けられる思いがした。彼女の心は強い。しかしそれはあくまでもほんの少しの差であって、他人と同じように心を痛め、そして何度も傷ついているのだ。私たちは一体なんのために呪霊を祓い続けているのか。歩む道の先に待つのが、仲間や、彼女の死だとしたら。それはもう何度も考えたことであるが、その度に私は自分を見失いそうであった。
 あとから思えば彼女が泣く時はいつだって私の前だけであった。五感全てで彼女を感じることにより、文乃が死なずにここに戻ってきてくれたことが本当に奇跡であるのだと、嫌というほど理解させられる。私たちはその存在を確かめるように、互いに縋り付くように抱きしめあった。
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