第十一話

 灰原くんと七海くん、三人での任務を終えて高専に戻ってきた頃には、辺りは既に暗闇に包まれており頭上には瞬く星が散りばめられていた。予想よりも任務は難航してしまったが、誰一人として大きな怪我を負わなかったのだから決して悪い結果ではなかったと言えるだろう。最後の一体を祓ったあと、二人には難しい表情で見つめられてしまったけれど。

 高専に到着後、わたしはシャワーを浴びてから傑先輩の部屋へと向かっていた。もう随分と遅い時刻ではあるが、彼にこれから会えないかと帰り途中の車内でメールを送ったのだ。突然のメールに少々驚いてはいたものの、彼は快くわたしの願いを聞き入れてくれて、大丈夫な頃にまた連絡して欲しいと返信が届いていた。おそらく、わたしが汗を流したいだとか、そういうことを気にしてくれているのだと思う。彼はどこまでも配慮の行き届く人であった。
 トントン、と控えめに扉を叩いた。寮の廊下は静まり返っていて、冷たい空気が火照った体から熱を奪っていく。吐く息は未だ透明なままであるが、もうしばらくすれば白く色付いてくるだろう。季節は秋から冬へと移り変わろうとしていた。
 そうしてしばらくするとゆっくりその扉は開かれて、「お疲れ様」と傑先輩から優しい言葉と表情で迎えられた。しかしわたしと視線が絡むと驚いたように目を見開いて、そのあと苦しそうに眉を寄せてしまった。その表情はまるで、先ほどの灰原くんと七海くんみたいだ。傑先輩はそっとわたしの手を取って、部屋の中へと引き入れる。彼の部屋に入るのはあの雨の日以来であった。

「これは、呪霊に?」
「はい。戦闘中にちょっと切られてしまって」

 誰一人として大きな怪我を負うことはなかった。けれどなにもなかったというわけでもなく、わたしの髪は元あった長さよりも短く途切れており、それほど大きな差があるわけではないが左右非対称になっていた。傑先輩に言った通り、呪霊からの攻撃で髪を切られてしまったのだ。
 彼はわたしの腕を引くと、そのまま奥の部屋へと導いた。中は決して物が少ないわけではないけれど各々然るべきところに整列されており、とても綺麗な部屋だと思った。一番奥にはわたしの部屋と同じようにベッドが配置されており、彼はわたしをそこに座らせると目の前に片膝をついてわたしの顔を覗き込んだ。

「怪我は」
「どこもないです」

 そう言うと傑先輩は少しだけ安心したように、「……よかった」と小さく息を吐き出した。しかしわたしを見つめる視線は未だ切ないままで、寄せられた眉の間を伸ばすようにそっと人差し指を添える。すると彼は隣に並ぶようにベッドに腰かけると、わたしの頭を抱きかかえるように腕を回した。

「悲しい、ですか?」
「当たり前だろう」
「二人にも、そう言われました」

 七海くんは、「髪だろうと立花の一部だろう」とわたしに言った。そして灰原くんは、「本人が気にしてなくても周りから見れば傷を負ったのと同じような感覚があるってことだよ」と彼の補足をするようにそう言った。
 傑先輩はぶつりと切れた毛先を手に取り、何度も親指で撫で付けるように触れている。灰原くんが言ったようにわたしはそれほど髪が切られてしまったことを悲しいとは思っていなかった。ただ、傑先輩よりも短くなってしまったなと思ったくらいで。

「……傑先輩にお願いがあって」
「お願い?」
「はい……あの、わたしの髪を切ってくれませんか?」

 そう言うと彼は再び大きく目を見開いた。なんだか今日は彼を驚かせてばかりな気がする。明日からまた任務が続いており、美容院に行けるのはまだ先になってしまうだろう。自分で切れないこともないが、なんとなく、傑先輩に切ってほしいと思ったのだ。

「人の髪なんて切ったことないよ」
「わたしも、お願いしたことないです」
「文乃は時々、周りが予測もつかないほど大胆な時があるよね」
「そう……でしょうか」

 見上げれば、傑先輩は困ったように笑っていた。そしてしばらく悩んだように小さく唸り声をあげると、「わかった、やろっか」とわたしの頭を優しく撫でる。

「失敗しても恨まないでね」
「そんなこと……どんなことがあってもしませんよ」


 しゃく、と小さく音が鳴る度に、はらはらと新聞紙の上に切り落とされた髪が落ちていく。フローリングの上に何枚も敷かれたその新聞紙の真ん中にちょこんと座り、胡座をかいた傑先輩がゆっくりとわたしの髪に鋏を入れていく。静かな夜、会話もぽつりぽつりと疎らで、まるでなにかの儀式のようであった。

「なんで私に頼もうと思ったの?」

 傑先輩は鋏を動かしながらぽつりとわたしに尋ねた。床に敷かれた新聞紙の文字を目で追いながらわたしはしばらく考え込む。

「自分で切ろうかとも思ったんですけど……」
「うん」
「なんとなく、今この瞬間もしわたしたちが逆の立場だったら、わたしは傑先輩の髪を切りたいと思ったからです」

 すると傑先輩の動きが止まった。静まり返る部屋に、やけに自分の呼吸音だけが大きく聞こえる。そういえば鈴虫の音が聞こえなくなったのは一体いつからだっただろう。

「人に髪を切ってもらうことなんてこの先そうそうないと思うんです……小さなことかもしれないけれど、たくさんのはじめては傑先輩が良くて……」
「…………」
「……傑先輩?」
「……確かに、文乃は思ったより独占欲が強いのかもね」

 彼の指がわたしの髪に触れ、そして項をさらけ出すように毛先を横に流した。首筋が急に寒くなり、思わず身震いしたくなるのをなんとか堪える。すると彼の指がその晒された項にそっとなぞった。

「ひゃ、」
「擽ったい?」
「えっと、はい……」

 背後から、ふっと小さく笑い声が聞こえたあと、背中と首筋に微かに熱を感じた。その熱が首筋に顔を寄せたせいだと気付いたのは、彼の下ろされた髪が肌を掠めたあとで、吐息が微かに項にかかると彼はそこに舌を這わせるようにして口付けを落とした。
 いつものような軽い音ではなく、肌を吸われるような鈍い音が小さく響いた。途端にそこはまるで熱を持ってしまったかのように熱くなって、伝染していくように顔や指先まで熱い血が巡る。心臓と血管が大きく脈打つのが確かに聞こえた。

「私も同じだよ」
「え……?」
「文乃のはじめては全部私が欲しい。文乃が思っているより私はずっと貪欲だし、独占欲だってあるし、なにより……」

 ゆっくりと髪を撫でる手が止まって、わたしは思わず背後を振り返った。するとそこには眉を寄せる傑先輩がいて、それはあの雨の日を思い出させるような苦しげな姿。わたしは思わず身を乗り出して、彼の手を取った。くしゃりと、新聞紙が擦れる音が響いた。

「なにより……?」

 逃してはならないような気がした。そんな気配に気付いたのか傑先輩は緩やかに微笑むと、「文乃は本当に私を逃がしてはくれないね」と言ってわたしを抱き寄せ、まだ切りそろえられていない毛先を優しく掬った。

「私はそんなに綺麗な人間じゃない」

 それはあの雨の日に垣間見えた本音のような気がした。それが本当に本音なのかは実際のところわたしにはわからないけれど、少なくとも初夏の日々には見せなかった彼の一面であった。

「……わたしは、傑先輩が綺麗な人間だからすきになったんじゃないです」

 すると傑先輩は少しだけ目を見開いたあと、小さく笑った。しかしその表情はやはりどこか切なそうで、苦しそうで、わたしまで心臓が痛くなる。

「まさか、ここではじめて文乃にすきって言ってもらえるとは思わなかったな」

 そう言われて今度はわたしが目を見開く番であった。思えば、確かにそうだったかも知れない。この感情が“すき”というものなのかをずっと考えて、中々答えを見出さずにいた。今までも散々傑先輩に上手く伝えられずに甘えてきたのに、わたしは同じことをしてしまっていたのだ。

「すき、です」
「うん、ちゃんとわかってたよ」

 二文字で収まるような感情ではないのに、わたしはこの言葉でしか想いを伝えられないのだろうか。この感情を言葉で表すとしたらなにが適切なのだろうか。そもそも伝えられたとしても、本当にこの気持ちを全て伝えてもいいのだろうか。
 なにが正解でなにが不正解なのかわからない。
 ただこの時間を、一瞬を、たくさんのはじめてを傑先輩と共有することが出来る今を、狂おしいほど愛しいと思った。それだけは間違いなかった。

 呪霊によって中途半端に切れた髪は傑先輩の手によって丁寧に整えられ、切り落とされた髪は新聞紙と共に丸めてごみ箱に捨てた。彼よりも短くなってしまった髪を見て、少しだけ寂しい気持ちになったのはやはり伝えるべきではないと思った。
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