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 夕方、なまえはレオナルドのアトリエを訪れた。ノックをすると、工房の主は両腕を広げて歓迎してくれた。

「おや、あなたひとりだけですか?わたしはてっきりエツィオも一緒かと思ってましたよ。奥さまがなまえをエツィオに送らせるとおっしゃっていたものですから」

「うん。エツィオは忙しいみたい。アウディトーレ家に寄ったけれど彼いなかったわ」

「そうですか。それは残念だ。せっかくケーキを三人分用意したのに」

 そう言いながらレオナルドはがらくただらけの室内になまえを招き入れる。部屋に対して違和感があるほど綺麗なテーブルに案内され驚いたが、どうやらもともと整理されていたわけでないらしい。上にあったものが雑にどけられただけだということが、テーブルのすぐそばの棚がやたら物で溢れかえっているのを見てすぐわかった。

「ケーキは大丈夫。私が無駄にしないわ」

「それはありがたい」

 笑いながら、レオナルドはせっせとケーキや紅茶を用意してくれた。せわしないレオナルドを気にしながら、なまえは広くないアトリエを眺めた。やはり変わった代物ばかりが目につく。

「レオナルド、あの絵は」

「え?ああ、わたしが描いたものです。受胎告知。キリストを宿す聖なる器として選ばれたことを告げる大天使ガブリエルと、それを受ける聖母マリアの絵です」

 レオナルドの説明を受けながらなまえは立ち上がり、イーゼルに掛けられた絵画に近寄った。右側には聖母マリア、左側に大天使ガブリエルが描かれ、天使の背中には従来描かれる純白の美しい翼ではなくまさに鳥の翼がそのままついていた。

「はじめて完成させたものなんです。いや、お恥ずかしい」

「レオナルド」

「はい?」

「あなた、やっぱり天才だわ!」

 手を胸の前で組んで感嘆の息をもらしたなまえに、レオナルドも返事が上擦る。持っていたティーポットが手からずれたのを慌てて持ち直していた。どうやら驚いたらしい。

「受胎告知は宗教主題にもなっているからいくつか見たことがあるけど…こんなに素晴らしいものは初めて見た。天使様やマリア様の光輪はぴかーって光ってないのね!」

「あの頭の上の光の輪っかですか?ええ、わたしは発光する輪っかなんて見たことないですから、見たことのないものは描けませんよ」

「天使様の羽も本当の鳥の翼そのものね!」

「羽には飛ぶための構造があるのです。飛べないような羽があっても理屈に合わないでしょう?」

「なによりマリア様、とても優しいお顔をされてる…」

 宗教画において聖人の頭の上に光輪を描くのは当時の決まりごとであったし、天使の羽は神秘的な純白あるいは豪華に金色に輝かせるものであった。レオナルドの絵画はまるで素朴なものだったが、頭上の輪が光ってなくとも大天使とマリアだと認識できる神々しさがある。言葉にできない感動でなまえの胸は満たされていた。草も光も目に見えないはずの空気ですらも完璧に描かれているように感じる。
 だから彼はあの時、周りが見えなくなるまで鳥を見ていたのだ。この翼を描くために。あるいはそれ以上の理由もあるかもしれなかったが、なまえはさらに感心した。

「さあ、わたしの絵は置いておいて。ゆっくり話をしましょう。ほら、お茶の準備ができましたよ」

 またテーブルにつき、レオナルドとなまえは向かい合った。

「あなたはずっとフィレンツェにいたのですか?」

「うん、あなたに会えなかったのが不思議なくらい。ずっとフィレンツェにいたわ」

 レオナルドの用意してくれたケーキを口に運びながらなまえは言った。甘さがいっぱいに広がりたちまち幸せを感じる。
 それからふたりは一年間の空白を埋め尽くせるほどに話をした。なまえのこと、アウディトーレのこと、レオナルドのこと、これからの生き方のこと、夢のこと。時間を忘れるほどにたくさんの話をした。



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