Romantic Nightmare

▼ 幼天使の傷痕


 悠たちはひとまず家に入り、電気をつけるとケイトを居間のソファに座らせた。常に空調はつけたままにしてあるため室内は十分温かいはずだが、ケイトの小刻みな震えは収まらない。もしかしたら栄養失調状態なのかもしれないと思い立ち、冷蔵庫から作り置きの野菜スープを取り出すとレンジにかけた。

「ケイト。トマトスープは食べられるかな」
「えっ……えっと、はい……」

 ケイトは目を丸くして悠を見上げたかと思うと、何故か怯えたような表情で頷いた。いったいどんな生活をしてきたらここまで恐怖と不安に支配される子になるのか。想像しただけで眩暈がする心地だ。

「おいで。昨日作ったものだけど」
「……はい」

 温めたスープを皿に移してテーブルに置き、ケイトを呼ぶ。胸元を抑えるような形で自身を庇いながら恐る恐る近付くと、何度も悠とテーブルを見比べてから、そっと席に着いた。
 まるで、手負いの獣の子を手なずけようとしている気分だ。
 木匙を手に取り、小さく震える手でどうにか口に運ぶ姿は、何とも痛々しい。大豆と刻んだトマトと玉ねぎを悠自身の好みの味付けで煮込んだだけのものだが、見ているとそれなりに気に入ったようだ。あるいは空腹が過ぎて手が止まらないのかも知れない。
 いずれにせよ、これでいくらか体が楽になってくれればいいと、拙い仕草を見ながら悠は思った。

 たっぷり二十分ほどかけてスープマグ一杯のスープを完食すると、ケイトはほうっと浅い溜め息を吐いて手を合わせた。

「ごちそうさま、でした……」
「ん、偉い偉い。綺麗に食べたね」

 そう言い頭を撫でて、すっかり空になった食器を下げる。そのまま洗い物をしていると、控えめに服の裾を引かれて振り向いた。見れば、ケイトが泣きそうな顔で見上げている。

「ケイト?」
「あの、僕……スープのおれいに、いっしょうけんめい、ごほうしします、から……」

 胸元を握り締めながら切れ切れにケイトが放った言葉は、信じられないものだった。
 スープを与えると言った直後の怯えた表情。今し方の子供が放つべきではない言葉。細く小さな体と、恐怖に支配された態度。それらを頭の中で結び付けてしまった悠は、思わずケイトを抱きしめていた。一瞬ビクッと跳ねただけで、ケイトはおとなしく腕の中にいる。見なくとも、受け入れているのではなく抵抗していないだけなのだと、嫌というほど伝わってくる。

「……大丈夫。ケイトはなにもしなくていい。スープの代わりになにかしろだなんて、そんなこと言わないから」
「……え、で……でも……僕、ほかになにももってなくて……」
「必要ない。ケイトがここにいてくれれば、それでいいから」

 気付けばそう口走っていた。連れ子のいる女と再婚するからと連絡があったときは、また面倒を押し付けられるだけだとうんざりしていたのに、それも忘れて。
 そっと体を離して頭を撫でると、ケイトは先ほど以上に泣きそうな顔で悠を見つめていた。色違いの大きな瞳が前髪の隙間から覗き、不安定に揺れている。

「ケイトさえ良ければ、俺を本当のお兄ちゃんだと思ってほしい」

 そう言ってケイトの頬を撫でた途端、とうとう大粒の涙が転がるように落ちた。

「お兄、ちゃん……?」
「うん」
「はるか、おにいちゃん……」
「うん、お兄ちゃんだよ」
「おにい、ちゃ……っ」

 確かめるように、かみしめるように繰り返された「お兄ちゃん」の言葉は、遂に決壊した涙によって流れ落ちてしまった。しゃくりあげながら、声を殺して小さく泣く姿はあまりに子供らしくない。声を上げることを許されなかったケイトは、泣くことさえも自由にさせてもらえなかったらしい。悠は息苦しそうにすすり泣くケイトの体を優しく包むように抱くと、何度も何度も癖の強い金髪を撫でた。

「大丈夫。これからはお兄ちゃんが傍にいるから」

 存在感のないあまりにも軽い体を抱き上げ、そのまま膝に乗せる形でソファに座る。ケイトは悠の肩にしがみついたまま暫く泣き続け、やがて泣き疲れて眠ってしまった。

「本当に、香織の言葉は当たるから嫌になるよ」

 口ぶりとは裏腹に、ケイトを撫でる悠の眼差しはどこまでも優しかった。


<< INDEX >>



- ナノ -