荊の魔女

 花の鳥籠


 数年に渡り続いた惨い悲劇の幕は、主演である領主一家の処刑によって下ろされた。
 なにも知らぬままに眠る幼い主の寝顔を見下ろして深く一礼すると、青年は踵を返してフィオがどうしても開けられなかった唯一の出入り口である扉へと向かい、開錠もなにもなくただノブを捻って推し開き、当然のようにすんなり出ていった。
 城内は、先ほどまでの騒ぎが嘘のように静まり返っている。ここで働いていた人間は、皆騒ぎに乗じて逃げてしまった。所々に市民と一家が争った形跡が見られるほかはひどい損傷もなく、簡単に掃除をするだけで何事もなかった状態に戻せそうだ。
 青年は城の中心である広間で足を止めると、靴底から蔦が広がるような形の、白く光る魔法陣を展開した。呪文と文様が幾重にも重なった魔法陣はやがて城中に広がっていき、敷地全てを覆い尽くすと、硝子が砕けるような高い音と共に弾け、光の粒子となって城に降り注いだ。牡丹雪のような大粒の光が壁や床だけでなく調度品や美術品まで行き渡り、撫でるように覆い尽くす。
 それはフィオが眠る西の塔にも至り、無垢な寝顔にも光がふわりと一粒舞い降りた。
 庭に降り立った光は薔薇を急速に成長させ、鉄柵で出来た城門に絡みついていく。更に高い城壁にも荊の蔓が這い、根を張り、白灰色の城壁を緑色に染めていった。城門の荊は白い蕾を、城壁の荊は赤い蕾をそれぞれつけて、初めからそこにあったという顔で花咲くときを待っている。

「……さて。これで、お迎えの準備は整いました。フィオ様がいつお目覚めになられても良いように、お傍にいなければ」

 辿ってきた道を戻り、フィオが眠る西の塔へ。
 傷ついていた家具や絨毯などは全て元通りになっており、両親や姉妹の私室からは人の住んでいた気配だけが消えている。主のためだけの箱庭と化した城を、青年従者はひとり満足げな足取りで歩く。
 西の塔に戻ると、青年はフィオの枕元に控えた。白い両手を胸の上で重ね、季節外れの白薔薇に囲まれて眠るフィオの白い頬に落ちる睫毛の影一つまで目に焼き付けて。
 青年はなにも知らない眠り姫が目覚めるまでの長い長い時を、じっと傍で過ごした。

 どれほどのときが流れたのか、どれほどの季節が廻ったのか。静かに佇む青年も、深い眠りの縁にいるフィオも知る由などなく。外の世界から切り離されたようにじっと沈黙を保ち続けてきた荊の城は、眠り姫たる主の幽かな吐息交じりの声から動き始める。

「……ん……っ……」

 伏せられていた睫毛が微かに震え、淡い桃色の唇が薄く開かれる。
 吐息と共に零れた声は、衣擦れの音にさえ紛れてしまいそうなほど小さく、儚く空気に溶けて消えた。同時に、展示物のようにじっと控えていた従者も、ゆっくりと瞬きをして動き出すと主の顔を浅く覗き込んだ。

「おはようございます、フィオ様」

 良く磨かれた宝石のような瞳をゆるりと巡らせて声の主を視界にとらえると、フィオは一度ゆっくり瞬きをしてから徐に口を開いた。

「……あなたは……?」
「お忘れですか、フィオ様?」

 長い眠りから覚めたばかりでぼんやりする視界に映ったのは、首元を飾る白い鐘。

「ベル……?」
「はい、フィオ様。あなた様の第一にして唯一の従者、ベルで御座います」

 判然としない意識の中で思わず口にした言葉を、目の前の見目麗しい青年は自らの名として復唱した。

「……唯一って、どういうこと……? それに、フィオはどうしてこんなところで眠ってしまっていたのかしら」
「このエヴァンジェリン城には、もうずっと私とフィオ様しかおりません。先代が、森の奥へと隠居なさり、フィオ様が魔女として覚醒なさったときから、ずっと」

 目の前のアイスブルーの瞳が、雄弁に語り掛ける。フィオのためだけに作られた優しいお伽噺を読み聞かせるように。
 フィオの両親は、魔女の力を受け継いだフィオを怖れ、先代の魔女の住まう黄昏の森が見えなくなるほど遠い国に亡命したということ。先代の魔女は、フィオにすべてを譲り、森の奥へ隠居したのち、暫く経って寿命が尽き、この世を去ったということ。フィオは、先代から受け継いだ魔女の力の影響で深い眠りについていたこと。
 絵本を読み聞かせるかのような優しいベルの語り口に、フィオは知らず知らずのうちに聞き入っていた。

「それは、ほんとに起こったことなの……? フィオ、なにも覚えていなくて……」
「ええ、哀しいことですがすべて真実です。先代は最期に私にフィオ様を託されました。フィオ様がひとりきりになってしまわれぬよう、生涯尽くすようにと」
「そう……おばあさまが……」

 ぼやけた記憶の果てに、優しい手のひらの感触が滲む。
 先代の魔女は、確かにここに存在した。顔も声も思い出せない中、フィオの頭を撫でてくれた手だけは覚えている。
 どうあれ、明確な記憶がない以上、ベルの言葉を信じる他ない。

「あなた……ベルは、ずっとフィオの傍にいたのよね?」
「はい。フィオ様のお傍に、片時も離れずおりました」
「……ごめんなさい。なにも思い出せなくて……」
「すべて承知しております。どうかお気になさらず」

 俯いていた顔を上げると、優しくとろけるアイスブルーの瞳がすぐ傍にあった。
 甘い響きはフィオの心をとかし、欠け落ちた空白を黄金色の蜜で満たしていく。ベルの話を聞いているうちに、フィオの中に幼い頃からベルと共に育ったような懐かしく温かい感覚が芽生えていった。
 ずっと、傍にいた。誰もいない城の中で、ベルだけはフィオの傍らにいた。そのことがいつしか白紙となったフィオの過去を彩る、唯一の真実となっていた。

「そう、よね……フィオが覚えていなくても、ずっとフィオと一緒にいたベルがこうして覚えてくれているのだから、なにも心配することなんてなかったのだわ」

 淡く微笑むフィオに、安堵が根付くよう、ベルもにっこりと笑い返す。体を起こそうとしたのを見て、慣れた所作でベルがフィオの背中を支えた。

「そういえば、どうしてこんなところで眠ってしまったのかしら」

 辺りを見回し、今更ながら自室でないことに首を傾げる。

「力の継承が、フィオ様がこの部屋にいらっしゃるときに行われたためです」
「それってフィオは、おばあさまから唐突に力を継いで、そのまま眠ってしまったの? 最初からベッドにいたわけではないのでしょうし、ベルがここに寝かせてくれたのよね。ありがとう」

 無邪気に微笑んでお礼を言うフィオに、ベルは恭しく頭を下げて「恐縮です」と喜びを口にした。何故この幽閉用の塔にいたのかという、抑々の疑問は解けていないにも拘らずフィオの興味は現在地や失くした記憶などから逸れ、これからのことへ向いていた。

「まだ少し混乱しているけれど……とにかく、フィオはこのお城でベルとこれまで通りに暮らしていけばいいのよね」
「ええ、その通りです。これまでとなにも変わりありません。フィオ様の欠落した記憶はベルが補いますから、フィオ様はどうぞそのままお過ごし下さい」

 差し出された手に自身の手を重ね、ベッドから足を下ろす。つま先が床に触れるよりも先にベルが足元に跪き、甲の部分に薄紫の薔薇の花が咲いた白い靴をそっと履かせた。
 何年も同じ動作をしてきたかのような、無駄のないベルの所作に、フィオもそうされることが当然であるかのように振る舞う。

「お部屋に戻られましたら、ゆっくりとお話を致しましょう。フィオ様の継がれたお力のこともお伝えしなければなりません」
「そうね、お願いするわ。まだ自分が魔女になったなんて信じられないくらいだもの」
「それは、それだけフィオ様の素質が素晴らしかったということです。魔女力のの継承は魔力が馴染まずに持て余す者が殆どと聞きますから」

 フィオは「そういうものかしら」と不思議そうにしながらも、言葉自体にはすんなりと納得した。ベルがそう言うのならそうなのだ。
 西の塔を出て回廊を渡り、長い廊下を抜けて階段を上がる。
 道すがらに辺りを見回したフィオは、見慣れた城のような知らない場所のような奇妙な感覚を覚えたが、首を軽く横に振り記憶がないせいで何でもないことが気になるだけだと自身に言い聞かせた。

「フィオ様、お部屋に着きました」

 扉を開けて中へと導くと、フィオはベルの手からそっと離れて数歩進み入り、ぐるりと室内を見回した。淡い色の天蓋つきの大きなベッド、枕元に並ぶやわらかなクッション、部屋の隅には白いロココ調のクローゼットが並び、その横には奥の衣装部屋へと続く扉も見える。窓の傍には、寝る前のホットチョコレートを飲むための小さなテーブルセットもある。

「……さすがに、自分のお部屋は覚えていたみたい」
「それはなによりです。さあフィオ様、こちらへ」

 フィオが再びベルの手を取りベッドに腰かけると、ベルは丁寧に靴を脱がしてフィオの体を横抱きにして抱え、そっとベッドの中央に座らせた。大きなクッションを背もたれの代わりにして寄りかかり、長い髪を手持無沙汰に遊びながらベルを見上げる。

「お話致しましょう。フィオ様」
「ええ、お願い」

 ベルは語る。
 蜜に浸し、飴に閉じ込め、粉砂糖で包んだ、偽りの真実を。
 孤独の領主と化したフィオのために作られた、お伽噺の現実を。
 絵本の読み聞かせのように、ベルは語る。そうして緩やかに眠りへと落ちていく主人を見下ろして、ベルは花蜜の如き甘い声で囁く。

「お休みなさいませ。どうか、良い夢を」


 


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