荊の魔女

 悪夢の帳


 古写真のようなぼんやりと滲む風景の中、女性の金切り声に紛れて、陶器の割れる音や重たいものが絨毯に落ちる音が響く。耳を塞いでいても突き抜けて脳を引っ掻くその声に身を縮めている幼子の姿は、紛れもなく幼少時のフィオだ。
 浮気。裏切った。許さない。殺してやる。金切り声で聞こえてくる単語は、どれも物騒極まりないものばかりだ。

「お母様……お願い、もうやめて……」

 すすり泣く声でそう呟くも、遠く離れた別室で叫び続けている母親には届かない。
 幼いフィオには彼女の叫ぶ言葉の殆どが理解出来なかったが、なにか悪いことが起きているのだろうという事実だけは嫌というほど痛感していた。

「ちっ……違う! あの女は魔女だったんだ! 私は魔女に誘惑された被害者だ! 私は悪くない! 全てあの女に、魔女に仕組まれたことだったんだ!!」

 父の叫ぶ声がした。途端、ヒステリックな女の悲鳴が止んだ。けれど、事態が収まったわけではないことは、次の母の台詞でよくわかった。

「あら、そう。それなら、汚らわしい魔女は処刑しなければならないわね」

 絶対零度の氷でさえも身を震わせるような、ひどく冷たい声だった。先ほどまでの鋭い罵声が烈火の如くであったなら、まさに真逆の冷ややかさだ。
 どうして。何故。あんなにも優しかったお母様が。声にならないフィオの疑問に答える声は、どこにもなかった。

 その日の夕方、街と城を繋ぐ道の中ほどにある広場に、珍しく人だかりが出来ていた。人々の視線の中央では、頭に布を被せられた女性が磔にされている。民のざわめきの中に『魔女』という単語が紛れていることと、磔台の足元に積まれた薪や藁束、微風に乗って漂う、古びた油の嫌な臭い。そして、火のついた松明を持った処刑人が傍らに控えていることから、これからここでなにが行われるのかは明白だった。
 顔の袋から長く伸びた紐が乱暴に引かれ、女性の顔が民衆に晒される。いまにも火刑に処されようとしている女性は、まだ二十歳になったばかりの若い娘だ。薄茶色の髪を背に流し、綺麗な碧玉を恐怖に染め、好奇と不安に満ちた眼差しで自身を見つめている嘗ての隣人たちを、絶望の表情で見下ろしている。

「いやあああっ! 娘が、娘がなにをしたというんですか!」

 母親らしき中年女性が、息子と思しき若い男性に取り押さえられながら、処刑台に手を伸ばして泣き叫んでいる。周辺の者は憐みの目を向けるだけで、なにか言うことも、することもなかった。

「これより、魔女の処刑を行う!」

 高らかな宣言と共に、油の染みた藁束に松明が投げ込まれる。炎が女性を包み込むと、街中に響かんばかりの悲鳴をあげて、身を捩り始めた。大きく燃え上がる炎が、容赦なく若い体を蝕んでは焦がしていく。辺りに肉や髪の焦げる異臭が立ち込め、好奇の目で見ていた者でさえもその表情に後悔を滲ませていた。
 いつしか母親は放心した様子でその場にへたり込み、炎が弱まって、すっかり焼かれて娘だった黒いモノが再び露わになる頃には、その他の見物人らも眉を寄せ、目を逸らし、燻る死の臭いに口元を抑えるばかりだった。

 しかしこの悪夢のような黄昏時は、ほんの始まりでしかなかった。

 豪奢なシャンデリアが天井から下がる広々とした個室で、上品なドレスを纏った金髪の女性が、その容姿の美しさに反し、鬼女めいた形相で窓の外を睨んでいた。眼下に広がる美しい石造りの街。彼女の夫が治める、臣民たちの住まう街だ。そこに彼女を苛立たせる元凶がいるのだ。

「あの娘も、夫に色目を使っていたわ……きっと夫を惑わす魔女に違いないわね。処刑、しなければ……処刑を……」

 憎しみに囚われた彼女の脳裏には、数日前に視察で街へ降りた際、領主夫妻に愛想よく微笑みかけて挨拶をした、若い娘の姿が焼き付いていた。

 処刑台に磔にされている少女は、捕縛されて地下牢で尋問を受けた際、領主を誘惑した罪でここにいるのだと言われた。けれど、彼女には思い当たる節もなく、必死に誤解だと訴え続けた。それが『領主に嘘を吐いた罪』に変わるのに、三日もかからなかった。
 魔女の尋問は、魔女が罪を認めるまで続けられる。認めれば火刑。認めなければ領主に背いたとして尋問が続く。尋問とは名ばかりの、人の尊厳を奪う、悍ましい拷問の数々。それに耐えられる娘は、一人もいなかった。
 虚ろな眼差しで足元を見下ろす彼女の目には、最早涙も浮かんでいない。柵の外で祈るような姿で膝をつく中年女性とその肩を抱く中年男性は、恐らく彼女の両親だろう。それ以外の観客は、度胸試しで物見に来た数人の酔っ払いの若者たち以外誰もいない。何度となく処刑が繰り返されるうちに人々は領主に恐怖を抱き始め、明日は我が身と思うようになったためだ。

「これより、魔女の処刑を行う!」

 代り映えのしない宣言と共に、火が放たれる。

「あ、あ、あああああああああ!」

 叫んだのは一瞬だった。喉が炎と煙で焼かれ、咳き込んでいるうち声を上げることすら出来なくなっていった。
 細く掠れた悲鳴は、炎が舞い上がる音に掻き消され、もう誰の耳にも届かない。
 いつの間にか若者たちは消え、その場には頽れる夫婦しか残されていなかった。

「あ、ああ……! どうして……どうして……」

 煙を上げて佇む、かろうじて人だったとわかる黒い塊歪なが、いつまでも哀れな夫婦を見下ろしていた。


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