荊の魔女

 糖衣の傷


「せっかく持ってきたのだから、本を読もうかしら。集中してしまえば、きっとこの雨も気にならなくなるわよね」
「では、寝室に参りましょう」

 ベルと並んで寝室に入ると、まずは裾を汚してしまったドレスを着替えた。裾に僅かに残るムースの痕跡を見るとどうしてもベルのあの仕草を思い出してしまうため、フィオは小さく首を振って意識を余所へ向けた。
 大きな枕を背もたれ代わりに積んでベッドに座り、ゆったりと背中を預けて、膝に本を乗せる。左肩から胸へ流した巻き毛を抱えるような格好で本を持つとページを開いた。
 今回選んだのは基本的な魔法の本だ。金の蔦の装飾がチョコレート色の表紙を縁取り、背表紙には流麗な字体でタイトルが書かれている。

「物語以外の本を読むのは久しぶりね……あまり難しい文章で書かれてはいなさそうで、安心したわ」

 独り言を呟きながら、小さな手がページを捲る。僅かに色褪せた紙と、夜色のインクで出来た魔法の世界を、フィオは黙々と歩き進めていく。四大元素や、魔法の組み方、表に出ない魔女社会の仕組みなどが章ごとに書かれている。フィオの魔法は、この本によれば精霊魔法に属する特殊なものであるらしいことがわかった。そしてベルは、とても高度な魔法で生み出された存在であるということも、改めて理解した。

「ねえベル、使い魔って動物や小さな隣人の姿をしたものが殆どで人の姿をした使い魔は滅多に存在しないってあるのだけど……」
「ええ。人型の使い魔を作成するには高度で複雑な術式と多量の魔力を消費しますから、誰にでもというわけにはいかないでしょうね」
「あなたを作った魔女は、よほど高名な魔女だったのね。優しく頭を撫でて下さった手の記憶しかないのが残念だわ……」

 白い睫毛を伏せ、まだ幼さの残る頬のふっくらとした曲線に影を落とすフィオを見て、ベルは夜着を整えていた手を一度止め、傍らに跪いた。

「フィオ様。先代は、とてもフィオ様を愛しておられました。その想いがなければ、私はここにはおりません。フィオ様には優しい記憶だけをと望まれた先代の願いが、無意識に記憶を整理したのだとベルは理解しております」

 フィオは開いたまま本を膝に置き、跪いた格好でこちらを見上げるベルに向き直った。気付いたときには当然のように傍らに控えていた従者のことも、高度な魔術を操る先代の魔女のことも、フィオはなにも知らない。ベルからは、魔女の力に目覚めた代償に多くの記憶を失ったと聞いている。

「……ベルは、おばあさまのことを覚えているのよね?」
「はい。先代から想いを継いでおりますから」
「それなら、ベルが話してもいいと思えることだけでいいからお話を聞かせてほしいの。思い出してほしくないものがあるなら、おばあさまの意思を尊重したいから……」
「畏まりました」

 幼子に、お伽噺を読み聞かせるように。美しく鮮やかな言葉だけで出来たメルヒェンの世界に心を溶け込ませるように。ベルは黄昏の魔女とフィオの物語を紡いだ。

「ベルのお話は、甘いお菓子で出来たお伽噺のようね。フィオを蜂蜜漬けにして、ベルはどうするつもりなのかしら」

 ベルが語った魔女とフィオのお伽噺を聞き終えたフィオは、うっとりと目を細めながら手を伸ばし、ベルの頬を撫でた。そして小さな指先が語り部の役目を終えたばかりの唇に添えられ、薄紅の輪郭をなぞって滑る。褒めるようなその手つきにベルは微笑を浮かべてフィオの手を取ると、ティアドロップ型に磨かれた水色の鉱石がついた指輪が輝く薬指の付け根に口づけをした。

「私にとってのフィオ様は淡雪のお姫様ですから。蜂蜜や粉砂糖を添えて甘く彩ることは呼吸に等しい自然な振る舞いなのです」

 ベルの瞳が、真っ直ぐにフィオを捕らえる。フィオは暫く固まったままで目を丸くしていたかと思うと一気に顔を赤らめ、近くの枕を掴み取ってぎゅっと抱きしめた。愛らしいその仕草に、ベルの笑みがいっそう深まる。枕の縁を飾るレースの隙間から覗いてベルを見つめるフィオの目が、僅かに潤んでいる。

「前言撤回するわ。ベルの言葉はすべてが甘くて、他愛ないお話をしているだけなのに、とけてしまいそうになるもの」
「光栄です、フィオ様」

 本を閉じ、ベルに渡す。ベルは預かった本をナイトテーブルに置くと、フィオの傍らに背筋を伸ばして控えた。

「それにしても、フィオとおばあさまがたった一日しか一緒にいなかったなんて、思いもしなかったわ。記憶はないけれど、もっとたくさんお話したような気がしていたもの」

 足首から先を上下に揺らしながら、フィオが独り言めかして呟いた。シーツに緩やかな波紋が出来るのを楽しむように暫く遊んでいたかと思うと、ベルを見上げて首を傾げた。

「ねえベル、フィオのお父様やお母様は魔女ではなかったのよね?」
「ええ、そう聞いております。ですから先代は黄昏の森に隠居し、そして……」

 ベルが濁した語尾を、フィオが掬う。

「お城の生活を捨ててでも、魔女のいる国から去りたかったのね」

 寂しそうな声で、自嘲の笑みを滲ませて。

「フィオ様」
「へいきよ。いまのフィオにはベルがいるもの。それに、家族の記憶がないと、いなくて寂しいとも感じないみたい。しあわせだった頃の思い出だけを抱えてひとり生きなければならない人より、ずっと恵まれていると思うわ」

 泣きそうな表情で笑うフィオの濡れた瞳を目にした瞬間、ベルは体が勝手に動いたのを意識の端で感じた。けれど自分がなにをしたのか、暫く理解が追いつかなかった。

「ベル……?」

 困惑しているようなフィオの声で、ハッと我に返る。もの凄く声が近い。すぐ耳元で、主人の声が聞こえたのは何故だろう。そこで漸く、ベルは己の行動を理解した。
 フィオの細い体が、腕の中にある。やわらなか髪が頬に当たっている。主人が従者に、無抵抗で抱きしめられている。

「っ、フィオ様、申し訳ありません。いますぐ……」
「いいの」

 慌てて身を引こうとしたベルを、フィオの声と小さな手が引き止めた。皺一つない白いジャケットの背中に手が回され、控えめに力が籠められる。

「フィオ様、私は……」

 事態を把握したいま、フィオ以上にベルが困惑していた。幼い主に対し、なにを思ってこの行動に出たのか、ベルは自分自身が理解出来なかった。

「いいのよ、ベル。フィオがこうしてほしいって思ったのだから、ベルはただ、フィオの望み通りにしてくれているだけなの」

 ベルの心ごと、フィオの甘らかな声が包む。白い頬がベルの肩にすり寄り、伏せた目は心なしか幸せそうに緩んでいる。

「……フィオね、ずっとベルは手のひら以外でフィオに触れてはくれないものだと思っていたの。フィオの従者として、いつまでも正しくあり続けるのだと思っていたわ」

 フィオの告白は、ベル自身も心に決めていたことであった。そうあるべきで、その他の選択肢など有り得てはならないはずだった。
 フィオの長いスカートが揃えた細い脚に纏わりついて、波打つシーツの上に横たわっている。上半身は殆どベルの腕の中に納まっていて、しなやかな脚だけが見えているため、普段のふわりと裾が広がる愛らしいスカート姿にはない色香を感じる。
 身動ぎの気配を感じて見ると、腕の中からフィオが真っ直ぐにベルを見上げていた。

「そうじゃないって、思ってもいいのかしら」

 ベルの腕に、僅かに力が籠る。幼い主人に対して愛おしさを覚え、護り続けると誓い、今日までそうしてきた。そしてこれから先も、なにがあろうともその決意が揺らぐことはないと自負している。けれどフィオは、ベルに対して恭しく付き従うだけの、従者として以上の振る舞いを求めているような口ぶりで囁いた。
 主人のこの問いに対する、従者として最も正しい答えは何なのか。そんな逡巡と困惑を察し、フィオは寂しそうに微笑んで、そっと体を離した。

「ごめんなさい、意地悪を言ったわ。忘れて頂戴」

 泣きたい想いを堪える顔は、抱きしめてしまう寸前に見たものよりも深く傷ついているように見えたが、今度は一歩も動くことが出来なかった。従者としても、フィオの傍らにある者としても、一番返してはならない答えだったのだとベルは痛感した。

「……少し、本に集中したいの」
「はい……畏まりました、フィオ様」

 顔を伏せたままで凪いだ夜の水面のように静かな声で言われ、ベルはただ了承して退室することしか出来なかった。

 閉じた扉を見つめている澄んだ瞳から、無垢な雫が零れ落ちて頬を濡らした。

「ごめんなさい……フィオにもわからないの……どうしてあんなことを言ってしまったのかしら……」

 顔を伏せて、声を殺して静かに泣くフィオの涙を拭う優しい手は、いまはない。ベルの腕の中に引き寄せられたときに落とした枕を拾い、抱きしめて顔をうずめる。濡れた頬に触れるやわらかなレースの感触がベルのハンカチを想わせて、余計に涙があふれた。

「どのお伽噺にも書いてあることじゃない……欲張ったら悪いことが起きるのは、当然の報いなのに……どうして止まらないの……?」

 ベルはいつも、従者としてフィオの求めに完璧に答えてきた。フィオの望みも、お茶の用意や着替えの手伝い、庭の花をティーテーブルに飾ることや、好みの本がある場所への案内など、従者に対する主人の要求だった。ならば先の問いは、ベルになにを求めたものなのか。自問自答してみてもただ胸が苦しいばかりで、答えには辿り着けなかった。
 膝を抱え、乱れた巻き髪に指を絡めて気を紛らわせながら溜め息を零す。

「……ベルの言葉は、どれも甘いものばかり。だからフィオは、隠れていたアルコールに気付かなかったのだわ。きっと知らないうちに、フィオだけが酔っていたのね」

 宙に円を描くように人差し指をくるりと躍らせると、なにもない空間から星の形をした一口大のチョコレートが現れた。フィオの小さな手のひらにも容易く収まるそれをそっと口に含んで、濡れた眼差しをぼんやりと足元に投げ出す。

「ベッドでお菓子を食べるだなんてはしたない真似、初めてしたわ。……ベルは、こんな振る舞いをしたとわかったら叱ってくれるかしら」

 また一つ溜め息をついて、抱えていた枕を置くと、ベッドからふわりと降りた。傍らに控えてすぐに靴を履かせてくれる従者がいないため、素足のままで毛足の長い絨毯の上を歩いてクローゼットに向かう。僅かに金の装飾が施された白いクローゼットの扉は、その繊細で優雅な佇まいに反して頑なだった。両手で力を籠め、どうにか開こうとする。

「きゃあっ」

 その甲斐あって扉は無事開いたものの、勢い余って手が離れ、その場に尻もちをついてしまった。直後、同じくらい勢いよく、部屋の扉が開く音がした。

「フィオ様!」

 ベルは絨毯に座り込んでしまっているフィオに駆け寄ると、すぐさま抱き起こして体を支えながらスカートの乱れを整えた。その表情は見たことがないほど焦りを映しており、フィオは先ほどのやり取りも忘れて見つめてしまった。

「フィオ様、お怪我はありませんか?」
「え、ええ……大丈夫よ、ありがとう」

 本当に怪我をしていないとわかると、焦りを張り付けた表情がほどけ、深い安堵の息と共に、穏やかな見慣れた微笑を浮かべた。その顔を見たとき、フィオの胸にも安堵の光が灯るのを感じた。同時に、まるで何日もその顔を見ていなかったような寂しさが襲う。

「すみません、フィオ様。お世話をする身でありながら、ご用事も察せず……」
「ベル、どうしてあなたが謝るの? ベルはさっきもいまも、フィオが言った通りにしていただけなの。フィオが……フィオが勝手にしたことまで謝らないで」

 惨めになるから。
 消え入りそうなか細い声で零された言葉にベルはまた謝罪の言葉を口にしかけ、ぐっと噤んだ。代わりにフィオの前に跪くと、泣いたときに乱れたままだった巻き髪を手慣れた所作で綺麗に直していく。更に靴を履かせ、外へ出ても何ら問題ない姿に整えた。

「……フィオは、ベルの手が好きよ。とても器用で羨ましいわ」
「恐縮です、フィオ様」

 身支度を整え終えると、ベルは開け放たれたままのクローゼットに目をやって、中からフィオが探そうとしたであろう服を迷わず取り出した。

「お風呂へ行こうとなさっていたのですね」
「ええ。顔を洗おうと思ったのだけれど、それなら時間も丁度いいから、いっそお風呂にしてしまおうと思って」

 フィオの答えを聞いて、ベルは着替え以外の支度も手早く整えると一式を小脇に抱え、手を差し伸べた。いつもと変わりない、従者としての完璧で丁寧な所作だ。

「ありがとう」

 お礼と共に手を取ると、ベルは幸せそうに表情をとろけさせる。
 どちらも、先のことは話題にしない。フィオの目元や頬に残る紅い涙の痕にも触れず、何事もなかったかのように普段通り振る舞う。
 自分たちがなにを望んでいるのかもわからないまま求めて傷つけあうよりは、白々しく主従の装いでいるくらいが丁度良いと、互いの距離が物語っていた。


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