短 篇 蒐


▼ 氷の城に春が来た


 一日の練習を終え、控え室で着替えをしているときのこと。ふと小羽は、紗夜の表情が冴えないことに気付いた。練習中はどうにか気を張っていたようだが、妙に溜息が多い。

「紗夜ちゃん、どうしたの? なにか悩み事?」
「ええ……」

 控え室から人がいなくなったのを見計らって小羽が声をかけると、紗夜は珍しく素直に頷いた。以前だったらなにがあっても平気な顔をして、自分のことを後回しにしていた紗夜が、小羽に対し悩みを吐露するなど。きっと余程参っているのだと小羽は背筋を正して続きを待った。

「……実は、お父様にお見合いを勧められているの」
「えっ」

 しかし、次いで飛び出してきた言葉に、小羽は意外そうな声を上げてしまった。
 何故なら紗夜に見合い話が舞い込むのは、これが初めてではないからだ。紗夜もそれを理解しているので、沈鬱な面持ちのままぽつりぽつりと零していく。

「いままでは、小羽のことを出せば先送りにしてもらえていたの。……あなたを言い訳にするのは卑怯かも知れないけれど、私にとってはあなたが最重要だったから」
「う、うん、今更そんなことで怒ったりしないよ」

 小学生時代に出逢ってからというもの、本当に紗夜の世界は小羽で回っていた。小羽も、それを知っていて甘えていたし、紗夜が望むならと彼女の願う最高のしあわせを手に入れた。その結果、朔晦財閥次期総帥である朔晦景雪と結婚し、孤児の劇団員から社長夫人という一足飛びどころではない環境の変化を遂げたのだから。
 しかし、そんな大変化でもやっていけているのは、ひとえに紗夜の教育があってのことである。紗夜はいつから画策していたやら、小学生時から小羽に自身と大差ない教育を施していた。夕食やティータイムに招いては食事マナーを教え、お姫様ごっこと称してドレスを着せては、ドレス姿の振る舞い方や言葉遣いを教えた。
 それも「演劇でお姫様をやるときに、ずっと本物っぽくなるわ」と小羽に悟らせない言い訳まで用意して。
 その甲斐あって、小羽が紗夜の意図に気付いたのは、朔晦財閥主催の披露宴で錚々たる顔ぶれに囲まれても比較的緊張せず、それらしく振る舞えたときだった。

「でも、あなたも景雪さんと結婚してもうすぐ半年経つし、そろそろ自分のことも考えなさいってお父様が……私、どうすればいいのかしら……」
「紗夜ちゃん……わたしは、紗夜ちゃんにもしあわせになってほしいって思ってるよ」

 小羽の言葉に、紗夜はありがとうと言って微笑むが、その笑みにはいつもの輝きがない。本当にどうしようもなさそうで、小羽も心配になってきた。

「紗夜ちゃんにとってのしあわせに結婚っていう形がないなら、無理にしなくていいと思うけど、相手の人ってそんなに嫌な人なの……?」
「そういうわけじゃないわ。お父様が選んだ人だもの。家柄や体目当ての中年オヤジなんかは除外してくれているでしょうし」
「それなら、一度会うだけ会ってみるのはだめ? もしかしたら趣味とか合うかも知れないし……あわなかったらお断りすればいいんだもん」

 紗夜ほどの家柄ともなると、一つ断るにも大変な心労を伴うことは小羽もわかっている。だが、紗夜の父が娘の行く末を心底案じていることも知っているため、軽率に「そんなに嫌ならお見合いなんてしなくてもいいじゃない」とは言えなかった。
 紗夜は暫く難しい顔をしていたが、小羽の言葉も尤もだと溜息を吐き、重く頷いた。

「そうね。お父様を安心させるためにも、一度会ってみるわ。……それに、無理に恋をしなくても夫婦にはなれるもの。最低限役目を果たせる相手であることを祈るわ」
「うん。がんばってね、紗夜ちゃん。相手の人、いい人だといいね」

 無邪気に微笑いかける小羽を抱きしめ、紗夜はいま再び深く溜息を吐いた。
 小羽のためという動機がない行動は、これほどまでに気が重いものだっただろうかと、いまから憂鬱で仕方がない。が、ある意味これも小羽を安心させるためかも知れないと自分に言い聞かせ、紗夜は相変わらず子供のように小さくて細い小羽の体を抱きしめながら、覚悟を決めるのだった。



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