13
白ひげの眼下で海がぐるりととぐろを巻いた事に気付くが早いか、息子の誰かが叫ぶように言った。

「オヤジ!渦潮だ!!」

時化に荒れたせいかそういう海流なのか、グランドラインの荒波で理屈は通用しないが、突如モビーディックの足元に現れた渦潮に舵が軋む。

並の船なら足掻く間もなく飲まれていたであろう豪流に、息子達は各々欄干に掴まりながら海を見下ろした。吹き荒れる風にぎしりと船体がきしむ。渦にのまれるが早いか、風に転覆するが早いか、一瞬の思案の後白ひげは腹から怒声のように声を張り上げた。

「凌ぐぞおめぇら!!落ちんじゃねぇぞォ!!」

海にかざしかけた手で舵を握り直し、白ひげの目は蠢く海流を読もうと荒れる白波を睨みつける。能力で海を割れば、恐らく反動に飲まれる。帆を降ろせばこの暴風雨だ、いかに巨船といえど転覆しかねない。

「こんな渦潮見た事ねぇ…!!」

顔を青くした息子の声に、白ひげは冷える肝をひた隠しからかうような声音でもって檄を飛ばした。

「海の胃袋っつってなァ!こん中にゃァお宝の山らしいぞォ!飲まれてェ奴はいるかァ!?」

「勘弁してくれオヤジィ!!」

息子の悲鳴にグラグラと笑い声を上げ、舵を握り直す。

モビーディックを逃がしながらなお、白ひげは海の胃袋と呼ばれる渦潮の中心、濁流渦巻くそこに視線を向けた。

初めて海の胃袋と呼ばれるこの大渦を見た日の事は、今でも鮮明に覚えている。

その日、砲撃の音に、ニューゲートが飛び起きたのと船が揺れたのとは同時だった。

「イスカ!」

「おう白!目ェ覚めたかァ!?お客だ!」

楽しそうに翳した手が、能力を使い二発目の砲弾を海に叩き落とした。水飛沫がニューゲートにかかり、思わず眇めた目で捉えた敵船の髑髏。

見覚えのないジョリーロジャーだ。

わあわあと雄叫びの中で船が寄せられ、海賊共が船に乗り込もうと昂っているのが見える。

「かっかっかっ!ここいらじゃエドワード親子が最強だってよォ!俺らの名も売れたもんだ!」

「やたらと楽しそうじゃねぇか」

「そりゃお前、そりゃそうさ!」

答えになっていない答えに、一人高らかに笑いに声を上げイスカは飛び移ってきた敵を一人海に蹴落とした。

取って食うぞと言わんばかりの賊らしい顔で、欄干に足を掛け敵船へ乗り込んでいった背中を慌てて追う。

仕掛けて来ただけあって、倒すには随分骨が折れたと思う。

それでも嬉嬉として戦うイスカと、ニューゲートの長刀に敵の数も半ばまで減った頃だろうか。

イスカが不意に、海に気を取られて足を止めた。

「…船に戻れェ!!」

いつになく慌てた顔が、ニューゲートに向けられると同時だ。ぐらりと足元から掬われるように海がうねり、喧騒がどよめきに変わる。何事かと海をのぞき込むより先に、視界一面の海がうねり始めていた。

「ったく、今更用はねぇってのに!」

イスカの声と荒れ始める海が引きずってきたかのように影を落とし、風が吹き付けはじめる空に走る稲光。

敵を一人切り伏せ、早く戻れと急かすイスカに船に戻ろうと踵を返した時だ。

「逃げるのかァ!?エドワード親子も大したことねぇなァ!!」

耳に届いた安い挑発。そう、安い挑発だと分かっているはずなのにはたと止まった足。イスカの怒声が聞こえたが、それよりも目の前の男から目が離せなかった。ぽつりと、鼻先に皮切りの雨が一滴。

「今、なんつった?」

瞬く間に降り出した豪雨。うねる海。しかしそんな事はどうでも良かった。

ニューゲートが挑発に乗ったことに、敵はにたりと下卑た笑みを浮かべニューゲートに切りかかる。切っ先がコマ送りのように見え、ニューゲートはその敵を迎え撃とうと長刀を振りかぶり、振り抜き、世界が揺れた。

「バカ野郎!!早く戻れ!!」

船と船が激しくぶつかり、船体が断末魔のような悲鳴を上げた。イスカを載せた船が離されていくのが分かったが、しかしニューゲートは引かない。たたらを踏みながらなお引くわけにはいかないと、プライドに似た何かがニューゲートに振り返ることを許さなかった。

「白ォ!!」

イスカの怒声が随分と遠くに聞こえ、雨が世界を一層荒々しく揺らすが滑る甲板を踏みしめる。敵もまた甲板を踏みしめ、構えられた刀に間合いを計り、強く蹴った。

稲光を弾いた白刃が光の尾を引きずり敵の腹部を横一線に切り裂き、敵の刃もまたニューゲートの胸元を切り裂いたが勝敗は明白だった。

流れる間もなく雨に薄まっていく血は、鮫を呼び寄せるだろう。甲板に伏せた、息の絶え絶えとなった敵を海に蹴り落とした。胸元が焼けるように熱い。

しかしそれに逆上した敵が、荒れる海も構わず襲い掛かってくる。頭はひどく冴えていた。敵の動きがぬるぬるとスローに見え、今なら敵はないと思えるほどに体が軽かった。未だ向かってくる敵を切り伏せるべく、立ち向かう。

それが、決定的な分岐路だったのだ。

敵との派手な乱戦を繰り広げている最中、大砲を何発も打ち込まれたかのような衝撃と船が軋む悲鳴にはっと我に返った時には、船はまるで蟻地獄に捕まったありの様だった。

渦を巻く海流に乗り上げ、白波が上がる中をぐるりぐるりと円を書くように進む。

「……っ!」

イスカの船は、その外側を追うようにいた。舵を握るイスカが何かを叫んでいるが、雨と風と波とでかき消され聞こえない。

「イスカ!!」

船が軋む。僅かに生き残っていた手負いの敵もまた狼狽えながら、しかし一人が舵を握ったのが見えた。

イスカの船がぶつかるように寄せられ、イスカが乗り込んできたと同時にイスカの船は大きく傾き沈没の兆しを見せて離れていく。素直に、ぞっとした。

「このバカ野郎!」

ようやく聞こえた目尻を釣り上げたイスカの怒声に不覚にも安堵を覚えながらなお、事態は好転したわけではないのだと思い出して唇を引き結ぶ。船は沈んでしまうだろう。そうでなくても、この状況は。

「馬鹿はおめぇだ!おめぇは逃げられたろうが!!」

ただ沈むにはずいぶん早い速度で、イスカの船が沈んでいった。波の間に助けを求めるかのような船首が立ち、それすらも瞬く間に海に飲まれていく。ニューゲートに怒鳴られ、一度不意を付かれたようにきょとりと瞬いたイスカは、ニューゲートの肝を冷やす恐怖を察したかのようにいつもの顔で笑ってみせた。

「かっかっかっ!寝ぼけてんのかァ!?」

痛いほどの雨に打たれながら、イスカが強くニューゲートの腕を掴みなんでもないように言ってのけたのだ。

「息子置いてどこに逃げろってんだアホンダラァ!!」

飲んだくれが笑うのとなんの変わりもなく、それこそいつもの馬鹿笑いと変わらぬ声音で言われた言葉が理解できずに、ニューゲートの息が詰まる。

掴んだ腕をぱっと離し、楽しそうな賊の顔してイスカは踵を返して舵を握っていた敵に声を張り上げた。

「取り舵だ!ちんたらすんなよ飲まれてぇかァ!?」

その傍ら、ぐりゃりと、ニューゲートの眼下で海が歪んだ。

ぞっと、ニューゲートの背に悪寒が走る。

「おい、イスカま…っ!!」

ニューゲートに行動させる間もなく、海が、世界を飲み込んだ。








prev next

bkm