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 さっきまでこの部屋には私達と教授以外はいなかった筈だし、出入り口から誰かが入ってくる事も無かった。だからと言って3階にあるこの部屋に窓から入ってくることは出来ないし、隣の教室と繋がっている戸があるわけでも無い。これでオカルトでは無いというのなら彼は手品師か何かなのだろうか。先程武藤くんが誰もいない筈の部屋の隅に向かって彼の名を呼んでいた事を思い出し、現在の不可解な状況と相俟って、背筋にぞわりと悪寒が走った。
 しかも、彼の前にいる真崎さんは虚ろな目をしている。足も覚束ないのか、後ろから支えられているらしい。先程までと一変した様子に私は戦く事しか出来なかった。

「城之内くん!」

 廊下へ走っていった友人の後を追うように研究室を飛び出そうとする武藤くんに慌てて駆け寄り腕を掴んだ。ここで彼までいなくなってしまったら私はおしまいだと思った。私の行動に武藤くんは驚いた様子で顔を向けてきた。

「む、武藤くん、真崎さんが」
「え?」

 私の言葉を聞いて振り返った武藤くんは、その見覚えのある人物を確認すると、私同様驚いた。

「遊戯よ……君は良い友を持ったな……彼は実を犠牲にして君を守ろうと考えた様だ……そしてここにも……」
「シャーディー! 杏子!! 杏子に……何をしたんだ!」

 私と違って勇気のある武藤くんは、勇猛果敢に得体の知れないエジプト人に近付いた。私はその様子をただ静かに後ろから眺める。もしもな事が起きた時にすぐ逃げ出せるように、チラリと背後に戸があることを確認した。
 武藤くんの声に虚ろな目の真崎さんは一切反応を示さない。焦点の合わないその両目は、真崎さんに意識があるのかすら疑わせた。

「心の部屋の模様替えをさせてもらった……この少女は言葉も記憶も持たぬ人形……私の意志以外動く事の無い人形と化したのだ!」
「な、なにそれ……」

 そんな曖昧な表現をされても真崎さんがその状態になった理由はわからないので私や猿でも分かる説明をしてほしい。ただ、何となくだが、今この場で起こっている事は、科学とか理論とかで説明出来るような現実的な事ではないという事だけは感じた。
 動かない頭を引っぱたきながら必死に彼の言葉を咀嚼するに、にわかに信じ難い事だが、真崎さんはシャーディーさんに操られているという事なのだろうか。だが、彼女の虚ろな瞳に普段の快活な意志は欠片も感じられない事からも、そのオカルトじみた予想は妙に説得力を感じてしまう。

「さあ少年よ! 怒りに実を任せるがいい……悲しみに実を震わせるがいい! そして奴を呼び覚ませ! もう1人の遊戯を!!」

 シャーディーさんの威圧的な言葉がどんどん武藤くんを追いつめていく。彼の言葉から察するに武藤くんのもう一つの人格に用があるらしい。武藤くんの感情を昂らせてもうその人格を引きずり出すつもりなのだろうか。
 そもそも彼は何故武藤くんのもう一つの人格の事を知っているのだろう。それこそ私には到底理解の及ばない領域の話になってしまうのだろうか。ここで話聞いてて私のSAN値大丈夫かな。
 少なくとも、このエジプト人が得体の知れない存在である以上は了解しましたと簡単に武藤くんのもう一つの人格を出して良いとは思えない。だが、真崎さんが人質になっている以上は下手な事は出来ない。今この場で私に出来る事が見つからない。

「……む、武藤くん…………」

 それに武藤くん本人は自身のもう一つの人格について認知はしていない。彼はシャーディーさんの言葉をどのように受け止めているのだろう。
 いや、真崎さんが人質になっているから、そっちに気を取られてあまり深く考えてはいないのかも知れない。その証拠になるのかわからないが、私が呼んでも武藤くんは一切反応を示さなかった。

「遊戯よ、よく聞け……これが最後の引き金の言葉だ……」

 この部屋にいる全員が一歩も動く事の無い、緊張した空気の中でシャーディーさんが重々しく口を開いた。

「この少女は私が死ねと命ずれば……死ぬだろう!」

 この一言に、私でも気付いてしまう程に武藤くんの肩が戦慄いた。人の感情に鈍い私が後ろ姿からでも察することが出来るくらい、武藤くんが怒った。
 そして、パズルを完成させたあの日に彼の家で見たときと同じ光が彼の胸元から見えた。

「シャーディー!!」

 もう一つの人格が出てきた。先程までの諸々の事象と声色から確信せざるを得なかった。それが場の状況を好転させるのか悪化させるのかはわからない。
 もう1人の人格を確認したシャーディーさんは、何か具体的な行動に移すわけでもなく、ただじっとその姿を眺めた。
 そこから先は日本語での会話の筈なのに彼ら2人の世界の言葉で話しているらしく、私には今いち理解出来なかった。日本人としてのプライドがその日本語達を理解しようとしたが、どうやら闇のゲームで勝負をするらしいという事だけしかわからなかった。

「8時だ!その時刻になったら屋上に上がって来い!」

 そう言った謎のエジプト人は虚ろな真崎さんを連れて部屋を出て行ってしまった。部屋の中はしんと静まり返る。
 武藤くんのおじいさんは目を覚まさないし、もう一つの人格になった武藤くんは怖い顔でシャーディーさんが出て行った先を見つめている。丁度その視線上に私がいる事に気付き、気まずさからその場を動こうとしたら武藤くんに名前を呼ばれた。

「名前はここに居ろ。じーちゃんを看ててくれ」
「え、あ、……う、うん。で、でも、真崎さんが、人質、どうしよう」
「杏子は俺が必ず助ける。だからお前はここで待っててくれ」
「……わ、わかった、じゃあ、待ってるね」

 私も得体の知れない勝負をする所には正直行きたくないし、何より怖い。真崎さんの事は心配だし仮に武藤くんが真崎さんを助けることが出来なかったら彼女はどうなってしまうのだろうなんて考えたくもなかったが、私なんぞが付いて行っても出来る事なんてあるとは思えなかったし、何だかんだで以前彼に助けてもらった事もあり、彼を信用するしか私には選択肢が無かった。

「……ね、ねえ」
「何だ」
「……武藤くんは、何者なの?」

 私の問いに武藤くんは何も答えない。答えたくないのか、それとも答えることが出来ないのかは私には判断出来ない。ただ、武藤くんが何も言わない以上は私もこれ以上この疑問に対して言及することは出来ない。

「じゃあ、……武藤くん、は、私達の味方、なの?」

 訊いておきながら何なんだという感じだが、私はこのもう一つの人格はきっと味方なのだろうと思い始めていた。たった一度助けてもらっただけで何と都合の良い思い込みであろうかと我ながら呆れたが、それでも今まで怖くて仕方が無かった存在に救われるという出来事は、テレビ版では悪さばかりしていたジャイアンが映画版で善行を働いた途端に物凄く良い人に見えてしまうかの様な効果を私にもたらしたのだ。だからこの問いは、そんな私の妄想という名の確信を、事実として確証づける為の確認だ。
 内容を変えた私の問いに、武藤くんは先程の無反応とは違い、小さくその口に微笑みを浮かべて小さく頷いた。

「ああ、味方だ」
「あ、ご、ごめん。うん、わかった。真崎さん、絶対、助けてね」
「ああ。杏子も絶対助ける。安心しろ」

 現実離れした出来事の連続で私の感覚は麻痺しているらしい。彼の言葉に、ああこれできっと真崎さんは無事に帰ってくるんだと、根拠の無い安心感を感じた。



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