ペディキュアの続き

 澄んだ深い青色が足元で揺れている。寄せる波が脹脛の辺りまで海水を運んで、それがまた海へと戻って行くと同時に、皮膚に残された雫が太陽の熱を受けてジリジリと焦げた。揺れる水面の奥で夏の色に衣替えをした爪が光って、光沢のある表面に散りばめられたラメが水の揺蕩いに連動して、極く眩しい。
 ふと返って行く波を目で追って地平線を眺める。今や完全に登り切った朝日が肌を焦がして、静かだった夏虫の大合唱が始まった。蝉の鳴き声を聞くと夜が明けたと思うのは、日本人なら皆が持つ感性であると信じたい。大量のアブラゼミの中に聞こえるミンミンゼミが時折鼓膜を刺激して、音だけで暑さを助長するような蝉時雨降る朝の訪れに、二人は顔を顰めながら笑いあっていた。



「カルナ、出かけよう」

 それはとある夏の夜更けの出来事だった。テレビの向こうでは重苦しい話題を連ねたニュースキャスターの顔が酷く沈んでいる。このニュースが終われば、局は放送休止に入るような真夜中の出来事だ。部屋の空調が時々唸って、機械音とテレビから聞こえる男声、それから夜虫の風流な鳴き声以外には、他に音がない。草木も眠る丑三つ時さえも超えた時刻だった。今日、正確には昨日起こった数々の事件を淡々と語るその声は聞き取りやすいのに、どこか覇気を失っている。名前はそんなアナウンサーの顔を一瞥すると、ティッシュケースの上でひっくり返っていたリモコンを掴んでテレビを消し、そのまま仰向けに寝転び、空調の風に揺れていた髪が床に広がって、ぽつりと零した言葉がこれであった。
 唐突という言葉がしっくり来るほど、彼女は藪から棒に声を発する。あまりに脈絡のない名前の言葉に、彼女の隣に並んで消えた映像の残像に目を顰めたカルナが暗くなった液晶に映っている。先刻まで殆ど無表情のままテレビを見詰めていただけに、名前の唐突過ぎるその言葉と途切れた映像に一瞬面食らったように瞬きを繰り返したものの、カルナは直ぐにいつもの調子に戻って頷いた。

「承知した」

 名前はカルナが頷く様を見届けると弾みを着けて起き上がり、はにかんだように笑いながら言う。

「良かった。楽しみにしてたんだ、カルナと出かけるの」



 そんな話をしたのが約一時間と、三十分前。カルナは名前と共に歩を進めていた。真っ暗闇に光るように点々と存在する街灯を頼りに、波の音が聞こえる場所を目指す。時刻は三時半を回っていて、こんな深夜と呼ばれる時間帯に都会を離れた辺鄙な場所で人気など有る筈もなく、そこいらを歩いていそうな普遍的なアジア顔の女と、その隣に並ぶ外国人風の細身の男という奇特な二人組は、硬いコンクリートの上を互いに何も言わずに歩いている。カルナの、街灯に照らされた白髪が真夜中の生温い風に揺れて、蟋蟀の声が体に纏わり付くような、日本の夏特有の湿気を帯びた空気を払う様に冷を運んでいた。
 歩を進めながらカルナは隣を歩く彼女を見詰める。自身と同じように生温い風を受けて揺れる髪が夏の空に舞っていた。足元には蝉の死骸やら抜け殻やらが点在していて、爪先に当たったそれらはころころと坂を下って行った。カルナはそれを見ながら、あとどれくらいの時間を彼女と過ごせるのだろうかと、ふと考える。
 彼女と自分の関係は聖杯戦争に参加するマスターとサーヴァントだ。それ以下でもなければ、それ以上でもない。彼女はマスターで、自分はそれに付随するサーヴァント。本来の目的である聖杯戦争が終われば、自分は座に帰す手筈になっている。ただ戦って、勝利を勝ち取りさえすれば良いのだ。だと言うのに、あの初夏の涼し気な風が窓から吹き込んだ月のよく光る夜、彼女はそれだけでは嫌だと言った。その真意を、自分はまだ彼女から聞いていない。そのことに今になって気付いて、一人首を傾げていた。
 両脇に並ぶ今や葉桜となった木々を横目に慮るも、意図は一向にわからない。当然、木々に口がついているわけではないのだから、木達がその問に答えることなど有り得ない。それなのに、カルナは何かを探すようにただ木々に目を配っていた。『後から思い返したあなたとの思い出が、戦いの日々だけで終わらないように』あの日、名前は確かにそう言った。その言葉を聞いた時、聖杯戦争という命の奪い合いに参加しているにも関わらず能天気なものだと感じたが、口に出して咎めるようなことはしなかった。名前が、いやに悲しそうな顔をしたからだ。その時彼女の中では何が渦巻ていたのか、他人の心を忖度出来ない自分では到底計り知れない。だが、今になってあの時の彼女の言葉が無性に引っかかる。
 カルナは知らず知らずの内に隣を歩く名前にあの日の事を問いただそうと声を上げていた。

「マス「見てカルナ!」

 だがその声は突如響いた名前の声によって呆気なく掻き消される。名前はカルナが何か言いかけたことにすら気付いていないようで、カルナはそれ以上言葉を紡ぐことなく閉口し、彼女の指さす方角を見据えた。
 辿り着いた海岸線。思考を巡らせている間に目的地に着いたらしい。あんなにも硬い地面はいつの間にか柔らかい砂に変わり、やけに歩きにくい。そこがアスファルトで舗装された歩道ではなく砂浜なのだと理解する頃には、カルナの鼻にも潮の匂いが届いていた。やはり此処にも人の姿は見当たらない。どこかで聞いたような水の寄せる音が響いて、夜空よりも深い黒色をした海が目の前に広がっていた。

「この時間なら人いないと思ったけど、正解だったね」

 名前がカルナの方を向いて腰を折りながら顔を覗き込んで来る。親指と人差し指で丸印を作って得意気に歯を出す彼女に、そうだなと返したカルナの前からくるりと背を向けた名前は何かに導かれるようにして海へと向かって行った。その余りに隙のない自然体な動作に、カルナは危うく流される直前でふと意識を目の前に戻し、歩き出した彼女の腕を引いて名前の行動を制する。

「危ないぞ」

 名前は自身の手を引くその細くも力強い腕に目線を投げて、「まだ暗い、足元に気を付けろ」そう続けたカルナに一瞬顔を赤らめてから笑った。

「大丈夫だよ」

 だってほら。そう言って指をさした方角にカルナが顔を向けると、地平線の彼方で細い橙色の線を引くようにして、薄い太陽が僅かに姿を表していた。彼女の行動を制した腕は逆に名前によって引っ張られ、すぐそこまで迫っていた水面に足を付ける。晩夏の夜明けの海水は生暖かいのだと、初めて知った。

「ねえ見て。塗り替えたの。あとね、今度は手にも塗ってみたんだ」

 彼女が昇り始めた太陽光を照明代わりに手足をカルナの方へと差し出して来る。足元に目を向けると、初夏に見た金と銀の爪はもうそこにはなく、見慣れない色を乗せた爪が僅かに光っていた。

「暗くてあんまり見えないと思うけどね、今度はカルナの瞳の色にしてみた」

 水面下で揺れ動く水の姿は見えども肝心の爪先が見えない。もどかしそうに目を凝らすカルナに名前はただ笑っていた。差し出された名前の手先を見つめる。昇り始めた太陽が逆光で、暗く影の落ちた手元は見えなかった。
 カルナは眉ひとつ動かさずまま名前の手をとる。彼女がそれに驚いて手を引こうとしたところで、すかさず指を絡めた。触れあった箇所から脈の鼓動する感覚が伝わって、カルナは目を細めていた。何故こんな事をしているのか。自分でもその行動が意図することは理解しえなかったが、ただ、この手を離すまいと、直観でそう思ったのだ。いつ離れることになるのかわからないこの手を、自分はいつまで握っていられるのか。思案する顔に朝日が射していく。そんなカルナを見つめた名前はカルナの不安を振り払う様にして言葉を紡いだ。

「秋になったら。冬になったら。来年になったら。今度はカルナと何をしようかな」

 陽の射す地平線に向けた彼女の横顔は逆光で表情を窺い知ることは出来なかった。聖杯戦争はそんなに長く続かない。来年どころか、秋にはもう、自分は此処にいないかも知れない。カルナはそう口にしようとして、また閉口した。いくらの名前とてそれくらいは理解しているであろう。理解した上でのこの発言ならば、こんなことを言ったら実に無粋だ。ならば、今の自分が添えるべき言葉はこれではない。そう気付いたカルナは、絡めたままの指を一際強く握り込んだ。

「それもまた、待ち遠しいな」

 いつかのまだ肌寒い春の終わりに聞いた声が、名前の鼓膜を揺らしていた。

リカレント

あとがき

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