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「やぁ、ウェラー卿。元気にしてるー?」
「………猊下」
いつもは眞王廟に引き篭もっている村田健の登場に、コンラートは形だけ挨拶をした。
サクラに怒られて何がいけなかったのか夜中ずっと考えて、気付けば朝になっていた。気が重くて、それに引き摺れられるように身体も重く感じて。
無理矢理、鉛のような体に鞭を打って、日課になっている陛下とのロードワークに出掛けて……オリーヴの部屋で泊まったサクラを起こしには行けないと食堂まで足を速めたのに、今日に限って…いや今日だから?まだ怒りが冷めてないのか、食堂にはサクラの姿はなかった。
「あれ?なに…この沈み様は」
「朝からこうなってた」
陛下がグウェンダルに尋ねたい書類があるからと言われて、現在進行中で長兄の執務室にいた。
猊下と陛下の会話も、耳から外へすり抜けていく。
――サクラは何故怒ったのだろうか。
その疑問が、昨夜からずっと頭を占めている。
厳しく言い過ぎたから?でも前も死ぬとか簡単に言わないでと言った時は、怒らなかったのに。昨日は言われたくなかったのか?いや、そもそも昨夜のサクラは、少し様子が変だった。
期待するような眼差しで、意味深な科白を……なんだっけ。そうそう。
昨夜の光景を脳裏に蘇らせていたら――…猊下にお声をかけられ、思考から浮上した。
「おかしいな、ウェラー卿は今日は上機嫌なはずだと思ったんだけど…当てが外れたかな」
「なんでだよ」
コンラートの疑問を、ユーリが代弁した。
村田は、闇のような瞳をコンラートに向けて、陛下の後ろで控えていた彼を「まぁ座りなよ」と、ソファへと勧めた。
すかさず、「ここは私の執務室なのだが…」と、コンラートの兄――グウェンダルの低音が室内に響いたが、誰も気にしなかった。
そう、ユーリがグウェンに尋ねたい書類があるからと朝食の後からずっとここに居座っているのだ。ユーリがいるから護衛のコンラートも当然いるわけで。無視されたグウェンダルは、猊下と陛下、そしてなにやら落ち込んでいる次弟の三人を見て、溜息をついた。
それ以上文句を言わないのは、グウェンダルもコンラートの様子が気になったから。
まあ、グウェンダルも村田もユーリも、コンラートが落ち込んでいる元凶は少なからず理解していた。ここまで彼を落ち込ませる人物など一人しかいない。
「昨日ね、土方さんに会ってさぁ」
「!サクラの様子が変だったのは…」
「まぁまぁウェラー卿、落ち着いて。話は最後までちゃんと訊くもんだよ。なにか面白い事がないかなーと、僕は土方さんにちょっかいをかけたんだ」
悪びれずにそう告白した村田に、ユーリは半眼で見遣る。
「村田、お前…なにやってんだよ」
「土方さんの様子が変だったって…何かあったのかい?」
そんなユーリをスルーして村田は、コンラートに問いかけて。問われたコンラートは、昨夜のサクラの様子を思い浮かべる。
「昨夜、サクラと話をしていたら急に怒り出して…俺の言葉に怒ったのは明らかなのですが、」
じっと突き刺さる黒は、サクラと同じ黒なのに、猊下の瞳はサクラには感じない威圧感をコンラートに与えた。
サクラのどこまでも澄んでる黒曜石のような瞳は、コンラートに安らぎを与えてくれる。同じ黒なのにここまで印象が違うのは、コンラートがサクラを愛おしいと思っているからか。
もしくは、彼の大賢者としての記憶が、隙のない瞳を作り上げているせいもあるかもしれない。
込み入った話をしたくないと思っているのに、話さなくちゃいけないという気になってしまう。一瞬…渋る様子を見せたがコンラートは、重い口を開けたのだった。
「えっそれっきり!?それで朝、食堂にいなかったのッ!?」
「どんな会話をしたの?」
対照的な二人の反応に、コンラートは苦笑した。
「サクラを捜して見つけた際、サクラは月を眺めていたので、綺麗ですねと」
「それで?土方さんは?」
村田の眼鏡がキラーンと反射したのに気付いたのは、こいつが黒幕なんじゃ…と思ってたユーリとグウェンの二人だけで。コンラートはサクラの事で頭がいっぱいだった。
「えっと…」
『そ、そうかー?私は…ずっと前から、あ二十年前から此方の月は綺麗だと思っていたぞ』
「――と」
「ふむふむ」
「なんだよー村田は何か分かっちゃったわけ?」
「はぁ渋谷は…はぁ」
「二回も溜息をつくなよ失礼なヤツだな!」
「少しは文学にも興味を持ちなよ」
今度は村田の呆れた眼差しが溜息と共にユーリに送られた。
何か面白いことにならないかなと思い立って、血盟城を訪れて最初に出逢ったのが土方さんだったから。
土方さんイコールウェラー卿の図式が村田の頭の中に浮かび、適当な言葉を放ったんだけど……こうなるとは思わなかった。いやホント面白いよ君達。
「遠回しな告白の常套句だよ」
土方さんってば、渋谷と同じで純粋で、真っ直ぐで。
普段は聡いのに、村田と張り合うくらい頭が良いのに、村田を疑いもせず真に受けて、ウェラー卿に必死に想いを伝えようとしたなんて。
土方さんが心配しなくても、ウェラー卿が愛想つかすなんて、天と地がひっくり返ってもあり得ない事なのに。
愛の言葉を言ったら面白いなーって思ったのは事実だけど、まさか遠回しにそう来るとは思ってなかった。しかもウェラー卿に伝わってないし。いやあ面白い。
「その昔とある偉人が“Iloveyou”を、日本人は愛してるとはっきり言わない人種だからと“月が綺麗ですね”と訳したんだ」
「へぇ」
「これまた有名な小説家がロシア語を訳した“死んでもいいわ”のフレーズを返すのが定番となってる。――もちろん、土方さんだってウェラー卿が知らないのを知っていただろうから…敢えてこの返しは使わなかったんだろうね」
「あれ?ってことはサクラひょっとしてコンラッドに」
「用は好きの気持ち以上の感情をウェラー卿に持ってるって言いたかったんだろうね」
事の顛末を理解したコンラートは口角を上げた。
――ああなんて可愛い御方だ。
猊下の言ってる通りなら――…サクラは昨日自分に、二十年前から自分の事が好きだって言ってくれたって事で。
猊下に言われたのを気にして、自分に想いを伝えてくれていたと知って、コンラートの気分が高揚した。
成り行きを見守っていたグウェンダルと、ようやく理解したユーリの視線が、コンラートに集まる。コンラートが手で口元を隠していたが、全身から嬉しさが滲み出ていて。隠しきれてなかった。
ユーリが、「…休憩して来たら?」と、サクラの元に行ってきなよと言った。…うん、言わずにはいられないくらい嬉しそうにしていたから。
陛下の許しをもらったコンラートは、数分前の落ち込みが嘘のような俊敏な動きで立ち上がって――…音もなく出口の向こうへ姿を消した。
「…平和だ」
今まで黙っていたグウェンダルの呟きに、
「平和だね」
ユーリと村田は、頷いた。
ウェラー卿の嬉しそうな顔を見るのは、つまらないから…今度はケンカでもさせようかなー…なんて村田健が企んでいたとは、その場にいたユーリもグウェンダルも、標的にされそうなウェラー卿とサクラも露程も知らなかった。
平和の象徴
(サクラ!サクラっ!!)
(…何の用だ!それと静かに入って来ぬか!)
(サクラ!月が綺麗ですね!)
(……さては村田に訊いたな?)
(月が綺麗ですね!)
(今、昼なのだが)
(月が綺麗ですね!)
(何回言うつもりなのだッ!!うッ……死んでもいいわ)
END
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