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〈――ぁ、〉


 第五話【悪霊と妖怪】





「…どうした」


何か気になっている事が解決した後、頼んだ調べ物――産砂恵について調べているのかリンに電話をするつもりだった。

まだ学校にいるなら、一緒に出掛けようと思って。

肌寒い廊下を颯爽と歩いていたら、隣を歩いていた瑞希が足を止めたので、ナルも歩むのを止めて振り返る。


〈……〉


――僕には視えない何かが視えているのだろうか。

遠くを睨むように、窓の外を見つめている瑞希の横顔を黙って見つめる。声をかけても返ってくるのは沈黙だけで。


〈すみません。主が…〉

「主?瑞希、何を言ってい――…、」

〈私を保てなくなったみたいです〉


彼女の栗色の瞳は、人間じゃない…そう人形のように無機質で。

意味不明な事を淡々といい始めた瑞希に、疑問をぶつけて。言い終わる前に、“彼女”は、ひらりと紙になった。否、“紙”に戻った。

いきなりの事態に思考が停止する。


――これは…。

長方形のソレは、呪符だ。陰陽師やリンのような道士が敵から身を守る時や攻撃を跳ね返す時に使うものだ。

これが瑞希の姿になっていた…リンと仲が良いのはそのせいか?


「…今までの瑞希は、式だったのか」


いつから瑞希は式だった?

頭の中で疑問を巡らせて――…リンの言動が変だった様子が脳裏を過ぎり、なるほどと頷く。


「とりあえず瑞希とリンを捜すか。……まったく手間がかかる助手だな」





 □■□■□■□





「瑞希さんッ!」


と、麻衣が見たらビックリするだろう形相で、手を伸ばしたリンさん。

ジェットやリンさんは、私がフェンスから落ちかけているのに焦っているけれど、当の私は意外と冷静だった。だって私は結界師、空間を弄れるもの。


殺すッ


雲一つない青空を遮るように、鬼女もまた崩れ落ちた場所から飛び降りて。私と鬼女は空中で見つめ合う。

重力を無視して大鎌を振りかざす鬼女、上から私の名前を呼ぶ声が聴こえた。二人とも焦り過ぎである。


『――結、滅ッ!』


鬼女とはまともに戦えないのなら――…武器をどうにかしようと私目掛けて一直線の大鎌に長方形の結界を張り、滅した。

一緒に鬼女の右手首も滅してしまったけど……呪者は大丈夫かしら。怪我で済むくらいだったらいいんだけど。ちょっと罪悪感。


「瑞希さん!」

『ぇ、』


落ちるだけな鬼女の体に、出しかけていた念糸を出して巻き付けて、後は落下地点にトランポリンのように柔らかい結界を出すだけだと右手を構えれば。

右斜め上から余裕のないリンさんの声が聴こえて、えっと思った瞬間には、視界は真っ黒になったのだった。


『っ、ぇ、え?』

「っ」

『(リンさんっ)』


何度か、感じた事のあるぬくもりに、直ぐにリンさんに抱きしめられているのだと悟る。

強く握りしめられているのが、リンさんらしくなくて焦った。って焦ってる余裕はなかった!

屋上から何の躊躇いもなく飛び降りたリンさんに焦っていた心を落ち着けて。すかさず、表面に強弱をつけて正方形の結界を出した。途端にリンさんの背中が、私が張った結界の上に落ちて、ぽふんっと跳ねた。

リンさんが私を庇って背中を下にしてくれてたから、結界の柔らかさは確認できず。でも、リンさんから痛みを感じた声がなかったので、ほっと息を吐いた。


――多分、一連の出来事は数秒にも満たなかった、と思う。


《……瑞希無事か?》

『っリンさんッ!なんて無茶してるんですかッ!飛び降りるなんてっ』

「……」


リンさんの無事を確認したくて、のそりと起き上がろうとしたのに、背中に回る腕がそれを許してくれない。

仕方ない…と、結界の上で横たわったままのリンさんの上から、彼にそう言った。でも返ってくるのは無言で、私はムッと眉を寄せた。

リンさんと私が張った結界の間に、彼の式が下敷きになっているのに気付く。彼は、式で衝撃を防ぐつもりだったらしい。


『私は結界師なんですよ!?心配しなくても――…、』


ぎゅうッと強く抱きしめられて、息が詰まった。

またもリンさんの腕の中に戻され視界が黒に染まる。リンさんの脈が速くなっていた。


「っ貴方はッどうしてっ、」


ぐるっと体勢が変わって、今度はリンさんに見下ろされて。ぽふんと結界の側面が跳ねた。

リンさんの背後で、潰されていた式が五体ふわふわ浮いている。リンさんの体が太陽を遮ってくれていて体勢が変わっても眩しくはなかった。


「――心配するに決まってるでしょうっ」

『こうやって結界を張れるんで、大丈夫…、』

「だとしてもっ!心配するに決まってるでしょうッ!」


怒りと悲しみが混ざり合ったような瞳で、眉を下げたリンさんの表情に。

安心させようと再度大丈夫だと言おうとした私の唇は、中途半端に開いたままで止まった。言おうとした言葉の羅列を喉の奥に呑み込んだから。

リンさんの雰囲気が私に先を言わせなかった。


「瑞希さんはもう私にとって大切な人なんですから、心配するに決まってます」

『っ』

「――…心臓が止まるかと思いました」


一族の人以外に、こんなに心配されることって本当になかったから。リンさんにこうやって心配されたり、優しい言葉をかけられたり、笑顔を向けられると戸惑ってしまう。

ゆらゆら揺れるリンさんの真っ黒な瞳を見つめる。


「わかりますか?屋上に来て直ぐに、瑞希さんが霊と一緒に飛び落ちる姿を見て、私がどれだけ驚いたか」

『……』


霊じゃなくて妖怪だよ、なんて言える雰囲気じゃなくて。

じーっと見つめられて、リンさんの黒曜石のような瞳に吸い込まれそうな感覚を抱いた。ひゅッと喉が鳴る。


「無事で良かったです」

『……心配してくれてありがとうございます』

「…瑞希さん…何度も言いますが、貴方は人間なんです。無茶にも限度と言うものがあります。少しは御自愛なさい」


リンさんの長い指が、私の頬に当たって――…どきりと心臓が早鐘を打った。

どくどくと頬に血液が集まってるのに、リンさんの手の平が冷たくて、暑いのか冷たいのか訳が分からなくなって。此方を見下ろすリンさんを見上げた。

長く伸ばされた前髪がたらりと垂れて。いつもは隠された右目が、今私の視界に曝け出されていた。

きらりと光る青緑虹彩の瞳に、見惚れた。

太陽の光を浴びて、キラキラと輝いている。


――こんなに綺麗な瞳をしてるなら隠さなくてもいいのに。


『わあ。リンさんの眼…綺麗ですね』


もっと見たくて長い前髪に手を伸ばした。


『青眼だったんですね、だから前髪伸ばしてたんですか?――隠すなんて勿体ない』


そんな事を言われたのは初めてだった。

嘘偽りのない表情で言われ、大人びた彼女にしては珍しくキラキラと年相応に栗色の瞳を輝かせているではないか。

リンにとって大切な女性に、奇妙な眼で見られがちなコレを真っ直ぐと綺麗だと言われたら――…理性がぐらりと揺れるのは致し方ない事だと思う。

衝動的に、伸ばされた彼女の白い手を掴んだ。

右目は明暗が分かるくらいでほとんど視力がなく、両目で見ると返って見え辛いのだと、瑞希に説明する間も惜しくて。栗色に浮かぶ自分を覗いた。


「私のこと口説いてます?」


にやり、と表現した方が正しい笑い方で言われ、リンさんの手によって私の左手が彼の唇に誘導されて――…。


《もーいいか?》


指先に、柔らかい弾力を感じたその時。

今まで空気を読んで黙っていた式神が言葉を発して、私は、はッと我に返ってリンさんから素早く視線を逸らした。手はリンさんの口元にあるけど。吐息が手に当たってくすぐったい。


――あ、危なかった…。

ジェットがあのタイミングで乱入して来なかったら、リンさんの世界に引き摺りこまれていたような気がする。

吸い込まれるあの感覚は、魔法みたいだった。って…私、なに乙女なこと考えてんのかしら。麻衣や高橋さんの事、笑えないわッ!いや、なにもないけどね!


『ぁ、あっ、いつまでもここにいたままでは駄目ですね。人目につかないとも言い切れないですし!』


人の眼には、私とリンさんが空中に浮いているように映る事だろう。それは避けたい。声が裏返って、顔がカッと赤くなった。

私の考えを察してくれたのか、リンさんは紳士的に私の体を起こしてくれて。「…そうですね」と言った。

ジェットは抜かりなく、リンさんにも認識されるように、姿を現しているからか、リンさんは、下からジェットをチラリと一瞥していた。


リンが内心恨めしく思っていたのはジェットしか察してなかった。


《おい。あれ…お前んとこの餓鬼じゃねぇか?》

「え?」

『あ、ホントだ。ナルですよ』


リンさんに差し出された手を掴んで立ち上がると、グラウンドの反対側にある前は学生会館があったらしい場所に、ナルが向かう姿が見えた。ここからでは豆粒の様に見える。


《お前の後輩も見えるぞ》


人間の眼では見えない先も見えたジェットの言葉に、思わず瑞希とリンは顔を見合わせた。

ナルが向かっている先は、工事中で。

あの辺りはそこらかしこに資材や瓦礫がそのままになっているのだ。霊の有り無し関係なく、危ない場所。

ジェットの言葉から考察するにナルは麻衣を追っているのだろう――麻衣は厭魅捜しでそこに?実に嫌な予感がした。

瑞希が真剣な顔で、『ジェット!』と、黒狼の名を叫び、彼女に応えるように――…リンと瑞希の前に立派な毛並みを持った巨大な狼が出現した。

呆気に取られていたリンも瑞希に見習い彼の背中に乗った。貴重な体験である。

ふわふわと揺れる毛並みを触ろうとしたら、瑞希が黒狼に姿は消してねと言った為、リンの眼には彼が見えなくなって。いる筈なのに見えなくて、自分の身体が一人でに動いているように見えるのを他人事のように不思議に感じた。






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