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『興除さんっ!すみません、お待たせいたしました』

「いえ、それほど待ってません。それにまだ時間前ですよ」


そんなに慌てなくても…と、息を弾ませる待ち人の登場に、怜悧な面差しの彼――林興除、通称リンは眉を下げて一つ苦笑を見せた。彼を知る人が見れば二度見するだろう柔らかな苦笑。

すみませんと申し訳ないと眉を八の字に下げ謝罪をしてくれる自分の恋人――葉山瑞希の本日の恰好は、花柄のワンピースだった。

大人っぽい服装になりがちな瑞希は、無地やチェックの入ったスカートを好む。

子供っぽいのが似合わないからと、暗めのトーンの花柄のスカートを履いているのは何回か見たが……リンが覚えている限り…明るい色を使用した花柄の物を身に着ける彼女は見た事がなかった為、これまた珍しいと不自然にならない程度に凝視した。


『興除さん…何分前に来ました?結構待ちましたか?夏ですから、油断してると熱中症になりますよ』

「大丈夫ですよ、落ち着いてください。先程まで冷房の効いた車内にいましたので」

『え、興除さん車?』


目を白黒させた瑞希にリンが僅かに小首を傾げつつ頷く。


『待ち合わせ場所を指定されたので…てっきり今日は電車で移動するのかと思いましたよ』


待ち合わせ場所は駅前で、確かに誤解されても仕方ないかもしれない。

眉をへにょんと下げた瑞希の顔が何で?と疑問でいっぱいになっていたのを見たリンが、心の中で可愛いと感想を零して、暖めていた本音をぽろり。


「実は、待ち合わせというものをしてみたかったんです」

『えっ』

「した事なかったでしょう」

『そう言えばそうですね…普段は大学とか家まで興除さん迎えに来てくれてましたから』


いつも迎えに来てくれる大人な恋人は、実は大学の友達に羨ましがられたりして、くすぐったくて興除さんのカッコ良さを再確認して鼻が高かったりもする。

同じ大学に通う安原修に対する牽制も含まれていると知らない私は常々そう思っていて、でもそれ以上に毎回出向いてもらうのは申し訳なく、今回外で待ち合わせしようと言われて、珍しいなーと思いつつ向かいに行かなきゃいけない年下の恋人にうんざりでもしたかな?と、内心不安だったんだけど……まさかそのような返答があるとは思わず。きょとーんとしてしまった。

プライベートでも黒が似合い黒を好む彼は、自分よりも大人で落ち着いていて、デートを重ねて新しい彼を知って、どんどん惹かれているというのに。


――こう…たまに可愛らしい発言をするから心臓に悪い。

言ってしまった後に、恥ずかしく思ったのか顔を背ける仕草も可愛く思えるから末期だ。

特殊な仕事に浸っているからか、流行に疎くたまにズレたところが見られる。

この点においてはナルやジーンにも見られるが、箱入り息子なのかと時々ツッコみたくなる…私の代わりに麻衣がツッコんでくれているので、私がツッコむ事は今後もない。ツッコミ予備軍という名のぼーさんもいるし。


「では行きましょうか」

『興除さん、興除さん』

「……瑞希さん手を繋ぐの好きですよね」


車止めてる駐車場、すぐそこなんですけど……と添えつつ、しっかりと差し出された彼女の手の平を握り締めて。ふわりと笑う彼女を視界から外した。

正確には、興除さんと手を繋ぐのが好きなんです、そう口内でこっそりと転がした瑞希と、耳を赤く染めて足早に歩くリンの姿を見た――道行く独身の人々は、リア充爆発しろ!と脳内で叫んだ。それくらい初々しくて甘さが漂っていた。

お互いに相手を可愛いと思い合っていたとは、第三者も当人同士さえも知らない事実であった。



車で軽くドライブしてやって来たのは――…。



『ここの水族館は初めて来ました』

「その初めての相手が私で光栄です」


都内から遠く離れた大きな水族館だった。

興除さんは二人で出掛けるデートの日は、プランを立てていることが多く、今日はその日だった。

二人で予定もなくショッピングをする日もあれば、二人が行きたい場所を照らし合わせて行く日もあり、デートの過ごし方は色々だ。綾子さんや麻衣には、マンネリ化だとか良く言われるんだけど、そんなことはない。

私に内緒でこうやって知らない場所に連れてきてくれる興除さんは、勿体ないくらい出来た彼氏だと思う。くすりと笑う興除さんは文句なしにカッコ良くて悔しい。


『ぁ、興除さん、あれを見て下さい!写真撮影が出来るみたいです』

「クラゲ、ですか」

『興除さん、そこに立って。写メ撮りたいので』

「……一緒に撮らないのですか?」


ぷかぷかと優雅に泳ぐクラゲの水槽から頭が何個分も出てる興除さんの図は、なんとも面白い。シュールだ。

普段写真など撮らない彼だからこそ、笑いが込み上げる一枚だ。不服そうな興除さんに待ち受けにしたいのだと伝えると、満更でもなさそうなのがまた可愛らしい。


『ん?ここは、』

「フグのようですね」

『フグ、かぁ〜……興除さんフグ食べた事あります?』


想像した通り、ありますよと返って来て、へェ〜と返す。特に意味のある疑問ではなかった為、さらりと流してしまった。


「今度一緒に食べに行きますか」


水族館へ来て喋る内容ではないかもしれませんが…と一言、口元に手を添えて笑みを溢す興除さんを見上げる。

興除さんの笑みは珍しくて、付き合うようになってからよく見られるようになった表情だけれど、貴重だと感じるのは、彼が朗らかに笑うのは自分の前だけだから――気付いてしまえば、見逃すのが勿体なくて。見る度に愛おしくなる。

麻衣の笑顔を夏の太陽に例えると、興除さんの笑顔は春解けの日差しの暖かさ。ほんのりと胸が温かくなるの。


『フグって脹れるんですよね』

「えぇ、危険が迫った時などに膨れるそうですよ。釣り上げたばかりのフグは大抵膨れてるらしいですね」

『ナルに怒った麻衣みたいじゃないですか?』

「……そんな事を言ってたら食べられなくなりますよ」

『興除さん…笑ってるの隠しきれてませんからね』


けほっと顔を背けて息を整える彼の背中に向かって、もうっと脹れて見せるものの私も可笑しくなって笑った。


「魚に例えるなら、瑞希さんは、」

『私は?』

「カクレクマノミです」


指で促されて見た先には、ちょこんとイソギンチャクから顔を出しているオレンジの魚。

カクレクマノミの近くでこつんとガラスに当てた指先から、興除さんに視線を戻す。と、慈愛のある眼差しでカクレクマノミを見ていて、ドキンとした。


『えっ、何故ですか?』

「外敵から身を隠して様子を窺う姿が、少し前の瑞希さんに似ています」

『………』


ほんの少しムッとして、口を尖らせる。

日本人が嫌いだと断言している興除さんに言われたくないと反論しようとして、人間が嫌いだと言っている私も私だと、それに反論したところで倍になって返って来るのは過去のやり取りで学んでいる為、閉口せざる負えなかった。

それからは、どの魚に誰が似ているかなど他愛無い話に花を咲かせ、お昼は館内にあるレストランで食べた。

デザートも食べていいと言われたけれど食べなかったのは、ダイエット中だから。露出が激しくなる夏は、お腹周りが特に気になる季節だ。いつ海に誘われても水着姿になれるよう絞らなくては。――修行の時間を増やそうかしら。


『先程の話に戻しますけど、興除さんは魚っていうよりペンギンに似てますね』

「ペンギンですか、黒いからとか?」

『それもありますけど…ほら見て下さい。飼育員の指示を無視してツンッてそっぽ向いているのが、興除さんっぽい』

「……ペンギンはやる気がない事で有名ですからね、指示を素直に聞く方が珍しいんですよ」

『博識ですね』

「私よりもナルに似てると思うのですが……」

『黒いからですか』

「黒いからです」


二人して顔を見合わせてどちらともなくぷっと音を立てて笑った。黒いのはお腹の中もだと失礼な感想を添えて。



『連れて来てくれてありがとうございました。楽しかったです』

「いえ、また来ましょう」


夏と云え、太陽が沈めば肌寒くなるから。

彼女がお手洗いに行っている間に購入したホットココアを嬉しそうに受け取る瑞希に、自然とリンの口角も緩む。

駐車場に止めたリンの私用車――黒の外車が見えたところで、脚を止める。

不思議そうな表情を浮かべた彼女に向かって、さてさて大人の…と言えば聞こえはいいかもしれない、男の欲と言えば此方の勝手に聴こえてしまう。

お互い公私ともに忙しく、こうしてゆっくりと会う時間は貴重だ。

仕事帰りにふらりと彼女宅に伺い、夜だけ時間を過ごすのは、なんだか都合のいい関係に思われそうで、リンには出来なかった。けれど、こうやってゆっくりと時間を取って、瑞希さんの可愛さに触れてしまえば、溜まっていた欲がただただ外に出たいと訴える。

男の都合だと判っていても――…仕事で会っているのに二人の時間を作れなかったのは意外と苦痛で。この欲を彼女に受け止めてほしいかった。

そこまでスマートに持っていくのも男の手腕次第。と、つらつら思考を巡らせたが、彼女が頷いてくれるだろうこともリンには判っていた。


「瑞希さん、ホテル取ってあるんです…夜はホテルのレストランで食べて、一緒に泊まりませんか」

『お泊り、ですか』

「そうです、お泊りです。触れさせて下さい」


――っ。

ずっと恋人繋ぎをしてた手を持ち上げて、そっとキスを落として流し目をくれる興除さん。大人の色気が半端ないです。

その流れももちろん予想して…ブラジャーにも気を遣っておめかししてるけど。直接こう誘われると、頬が勝手に色付く。音にしているのにいやらしさを感じないのは、相手が興除さんだからか。

夜のお誘いに、こくりと頷くのが精一杯でした。









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