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第十七話【凍解氷釈】
『――ん…、』
暗闇から浮上して、閉じた瞼に眩い光が射して――…
「俺は決して死にはしない、決してあなたを一人にはさせない」
徐々に脳が覚醒する。
ここは何処だとか、私は何をしておるのだとか、湧いた疑問は脳裏に焼き付いてるコンラッドの姿で、少しずつ思い出していく。
火炎で熱気が籠った教会で――…。
「俺はサクラが好きだッ」
私が守りたかった左腕を敵に斬られて、血まみれのコンラッドは、ふっきれた強い眼差しで私にそう言って。
「陛下には、胸でも手でも命でも差し上げる覚悟だけれど――…サクラ、貴女は俺のこの覚悟は嫌がるでしょう?」
悪夢のような出来事を思い出したくないと思っているのに、それと同じくらい忘れたくないと叫ぶ己もいて。
走馬灯の様にコンラッドの姿が、脳裏に浮かんでは消える。
『待て』
コンラッドの言葉が蘇って、ロッテの姿も浮かんで儚く消えた。
――ロッテ!!
ランズベリー・ロッテは…、私の護衛であるブレット卿オリーヴの部下で、私とユーリを逃がそうとして、横たわるギュンターと共に敵を迎え撃つ選択をしたのだ。
ギュンターもロッテも、無事なのだろうか。無事に違いないと信じたいのに、それを上回る不安が己の胸をざわつかせる。
『待って――…、…う、ぬ?』
遠ざかるコンラッドとロッテの背中に縋りつく様に手を伸ばしたのだが――…己の右手は宙を切って、違和感にぱちりと瞼を開けた。
視界に映るのは、憎いほど青く晴れ渡る空で。
――おかしい。
私は、一番最初にそう思った。酷く違和感を感じる。ここが眞魔国ならば、外は土砂降りの雨だ。それに、己がいたのは天高く燃え広がろうとしていた火の海の中のはず。
ぴくりと動くたびに耳朶に届く水音と、ぷかぷかと浮く身体を感じて、嗚呼…己は今、水に浮いているのだと知る。
私は地球に帰って来たのだろうか?中途半端に、掻き乱したまま、地球に帰ってきてしまったのか…?
コンラッドを危険に晒して、ロッテまで命の危険に遭わせてしまって、二人が無事なのかどうかも判らない。救いなのは、ユーリをちゃんと地球へと帰せたことだろうか。
『っ』
ぱしゃーんと音を立てて上半身を起こす。と、爆発で負った右腕に電気が走った。後で治療しよう。今はそれよりも…、
『ここは――…』
己の体を冷やしていたのはどうやら噴水で、見覚えがある景色だった。石造りの高い壁に、同じく石造りの洋館。
感じるのは、霊力ではなく魔力で――…私は、まだ眞魔国にいるのだと茫然と思った。あの場からスタツアしてきたのならば、時差はどれ位?晴れておるから…あの事件から大分経っておるに違いないと考える。
眞王陛下との取引で、私にはやらねばならぬ事が残っているから、地球に飛ばされておらぬのには、ほっと安堵した。
コンラッドに近付かぬことを条件に提示されたのは、眞魔国のために戦うこと。コンラッドの守りたかった腕は…守れなかったが、眞王陛下自身は、彼に近付いておらぬので、私は約束を守らなければならぬのだ。
『――眞王廟、か』
人間の地でない事に安堵したが、知ってる眞王廟なのに、流れている空気に違和感を感じて、じわりと焦燥感が胸の中に生まれた。
吹き抜ける風に乗って鼻腔を擽ったのは、血の臭い。四方八方から血の臭いが流れている。
――まさか…私がちんたらしておる間に、戦争を始めてしまったのか?
あんなに、ユーリも戦争反対だと止めたのに。彼の意向を伝えるはずだったコンラッドとロッテ、ギュンターの三人は、やはり只では済まぬかったのかもしれぬ。
伝わらぬままグウェンダル達は、人間との戦争を始めてしまったのかもしれぬ。
状況はどうなっておるのだろうか。まだ、無駄な戦いを止められるのか、それとも後には引けぬ状況になっているのか、私は知らねばならぬ。
眞王陛下との約束もあるが、己自身が、眞魔国を守りたいと思っているから。
とにかく、誰かに会って眞王廟を後にして、グウェンに会わなければ。ここにいては、なにも判らぬ。そう思って、水の中から出ようとしたら――…
「誰かいるのか?」
耳慣れた声が聞こえて、弾くように、振り向いた。
『コ、ンラッド…』
無事だったのか。
あんなに傷が出来ておったのに、二本の足でしっかりと立っておる婚約者の姿をこの眼に映して、じわりと涙が溢れた。
『無事だったのだな!!心配して――…』
「!?そ、双黒…」
無事なのを近くで確認したくて、彼の体温を感じたくて、駆け寄ろうとしたのに。真横からチャキンッと金属音が聞こえて、ぴくりと止まる。
コンラッドしか見えてなかったから、気配に気付かなかった。
コンラッドが無事な事に、感情が高ぶって、思考も動作も鈍っていて……そろりと右を見れば。数か月ぶりに見る太陽のような髪をした男が、
『な、』
見た事もない鋭利な眼差しと剣を、私に向けていた。
首筋に当てられたキラリと光る剣を見、男を見、私は絶句した。
彼から剣を向けられるとは思わなくて。何の冗談なのだと口を開こうとしたが、私は見てしまったのだ。空のような蒼の瞳に、殺気が籠っていたのを。
何故だ。何故――…親しい者に殺意ある眼差しを向けられて、鈍っていた思考が停止する。
己の唇から、何も出なかった。
「隊長。双黒だからって、何油断してるんだ!侵入者だぜ。大体、双黒なんて、いるわけないでしょーよっ!」
――し、しんにゅうしゃって…。
それは明らかに私に向けられた言葉。侵入者?私が?確かに許可なく眞王廟に流されたが、私に場所を選べぬことなど彼等は知っておるだろうに。
向けられる温度のない言葉に、戸惑う。
「どうせ染めてるに決まってる」
「…そう……だな」
『――ぇ…』
横から己の首筋に剣を向けている男――グリエ・ヨザックに対して、コンラッドまで、私に抜刀した。
耳慣れた鈍器が空気を切る音に、私は眼を剥いて、コンラッドを凝視した。キラリと光る金属越しに私の大好きな、虹彩を散らしたような双眸と絡まる。
「お前、何しにここへ来た」
大好きで大好きで堪らぬ彼の眼は鋭く細まり、星空の瞳に殺気が籠められていて。
コンラッドに、そんな眼で見られたことがなかったので、悲しくて、ふるふると震える。隣りにいたヨザックは、サクラが恐怖から震えているのだと思った。
「ここが眞王廟だと知っていて侵入したのか?答えろッ!!」
わけが判らぬかった。
何故、コンラッドにこんな眼で見られるのか。何故、ヨザックに剣を向けられるのか。
何故、コンラッドの瞳にいつもくれていた優しい光がないのか――…全てが判らぬかった。私はただ、コンラッドが無事で、側で確かめたかっただけなのだ。それなのに、何故剣を向けられる?
何故、コンラッドの瞳に愛ではなく殺意が籠められているのか。
何故、愛する人に殺意を向けられなければならぬのか――…これも全部“箱”のせいなのか、と、私は鈍る頭でそう思考した。
『侵入してなど…』
「言い訳は、牢獄でじっくりと訊こう」
「あれ?殺さねぇの?」
「どうやって侵入したのかまだ訊いてないだろ」
ああ、そうか…などと、ヨザックが頷きながら、私に皮肉った眼差しを向けていて。
そのように莫迦にされる覚えなど私には毛頭ないので、イラッと頭にきて、近い位置にいたヨザックの剣腕を掴む。反撃に出ると思っておらぬかったのだろう、ヨザックは、一瞬だけアホ面になった。
コンラッドから「動くな」と、構えていた剣がヨザックとは反対の首筋に当てられて、目線をヨザックからコンラッドに戻す。
『人の話を訊かぬか。――…私にも貴様らに訊きたい事が沢山ある』
何がどうなって、こうなっておるのか判らぬ。
禁忌の箱のせいで、情報が混乱して、私に剣を向けたのかもしれぬと考えた。私は、コンラッドとヨザックが理由もなく己に敵意を向けることなど絶対にないと、信じて疑わぬかったのだ。
ただこれだけは判った。
「俺が何処にいようと、サクラが地球にいようと俺の心はサクラ貴方にあります」
「俺は、絶対に、心変わりなんてしない。何があっても俺を信じてくれ」
と、私に甘い誓いの言葉をくれたコンラッド。今、私の目の前に立って威嚇しているコンラッドは、私の知るコンラッドではないのだと。
私が愛したコンラッドではないのだと――…根拠もないのに私は漠然とそう思った。その時だった。コンラッド、ヨザック、それから私の他に第三者の声がしたのは。
「お前等ッ!何をしているッ」
(たとえ、剣を向けられたとしても)
(コンラッドが好きだという気持ちは変わらぬ)
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