13-10
帰ってきた血盟城は、見るからに異様な空気に包まれていた。…――理由は知っておる。
グリーセラ卿ゲーゲン・ヒューバーが眞魔国に戻って来たのを、沢山の魔族が見てしまったから。隠しても遅かれ早かれ知る事になるであろうが――…。
静まり返った城内に、私は息を吐き出した。
何も知らぬ私にはこの空気を払拭させることも、誰かに優しく声をかけることも出来ぬ。出来ぬことがいっぱい。
「あ、サクラ」
『……ぬ?…ユーリか』
どうやら私は、ユーリの気配を読めぬほど、ぼんやりしておったみたいだ。
ユーリは、私を見て誰も近くにおらぬのを確認して苦笑を浮かべた。
「何してたの?」
『何も。ただぼんやりと歩いておった』
「あのさ、ヒューブのことさ、サクラはどう思う?」
冷たい風が吹き抜ける広い通路で、共に足を止めたサクラに向かって、ユーリは言いにくそうに、そう口を開いた。
『どう、とは?』
「みんなさー、ヒューブのことでピリピリしてるじゃん?あのヴォルフラムだって、」
『ヴォルフラムはいつもプリプリしておるような気がするが』
「そうじゃなくてッ!」
暗い顔はユーリには似合わぬと、敢えて話を逸らそうとしたが、ユーリは私に向かって声を荒げた。
思いつめたユーリの顔を真正面から見て、私は息を吐き出して――口を動かす。
『…どうも思わぬ』
「え」
『私は、ヒューブが何をしたのか知らぬ故、怒りを感じたりはない。ただ…』
そこで言葉を一旦止めた。
ずっとヒューブに会いたがっておったニコラ、ヒューブの事になると怒りを露わにするグウェンダルとオリーブ、それからコンラッド。
先程、いろんな魔族達が顔を顰める様を目撃して、私が想像するよりも許されぬことをヒューブはしてしまったのだと、脳内の情報を書き換えたわけだが。でも、私は何も知らぬ。知らぬのに、何かを発言したり出来ぬ。
『コンラッドや他の皆が、あんなにも激怒するヒューブとの因縁とやらは、気になるがな』
そう言ったサクラをユーリは、凝視してそれから、「うん、おれもかな」と頷いた。ひゅるりと、風が通路に吹き抜けた。
『オリーヴも…親や友達を失ったと怒ったことがあっただろう』
「うん、ニコラと会ったときだよね」
『あの時もヒューブの話題で…。ヒューブは……恐らく何かをして沢山の人を死なせたのだろう』
「……なに…したのかな…」
『なにをしたのだろうな…』
――それが判らぬのだ。
私とユーリは揃って溜息を吐いた。想像を膨らませたとて、結局わからぬ。
『ユーリは何処に行こうとしておったのだ?』
「どこにいても空気が悪くて、さ……逃げて来ちゃった」
『執務を投げ出して来たのか』
「は、ははは」
ユーリの泳ぐ目を見て、私は仕方ないヤツだなと零し、どうせ気になるのだから…と、ヒューブがいるだろう部屋へ行こうと誘った。その時だった。
『では、ヒューブの様子を見にゆくか』
「うん。気になるしね!コンラッドたちがいない間に――…」
「ですが、兄上ッ!」
通路の左角から、ヴォルフラムの只らなぬ様子の声が聞こえた。
「ヴォルフラム?」
『のようだが…』
迷うことなくコッソリ角から覗き見しようとするユーリの後に続いて、角から少し顔を出して、見てみると――…行き止まりの通路の先には、興奮気味に声を張り上げていたヴォルフラムと、グウェンダルとコンラッド、オリーヴの四人がそこにいた。
「お前に訊いてるのではない」
深刻そうな雰囲気に、一旦、体を引いて、ユーリと顔を見合わせる。そして頷き合って、そっと角から彼等を覗いた。盗み聞きする気満々。
「しかしッ」
「いくら魔王陛下の望みとはいえ、あの男を再びこの国に入れるとは。あの男が何をしたのか、忘れたわけではあるまい?」
グウェンダルは、抗議の声を上げる弟を一瞥して、表情が読めぬ一つ下の弟に視線を向けた。
答えなど判ってると言っておるかのように言葉を続ける。
「いや、お前が忘れるはずがないな」
やはりあやつらは、グリーセラ卿ゲーゲン・ヒューバーについて喋っておるみたいだ。息を潜めて話の行方を見守る。
あの男と微量の殺気を滲ませながら言ったグウェンは、見た事がないくらい殺気立っており――目が血走っていた。いつもなら悲鳴を上げるユーリも、事の行方が気になって、息を潜める。
彼等は、私達が知らぬ話をしておるのだ。聞きたくても、訊けなかったその話題。
「アイツのせいで、沢山の魔族が死んだわ」
オリーヴも、髪を掻き毟りながら悪態をつく。
「……サクラ様も」
『っ!』
「スザナ・ジュリアもだ」
「ッ!」
オリーヴとグウェンダルの言葉に、ひゅうッと息を呑んだ。視線の先では、無表情だったコンラッドが動揺して息を呑んでいた。
同じように悪態吐きそうなヴォルフラムは、拳を握りしめて、コンラッドとグウェンダルの会話をジッと見守っている。私の隣では、ユーリが困惑したのが息づかいで判った。
「…その罪が許されることはない」
グウェンダルは、やっと反応を見せたコンラッドに、言葉を続けた。
「あたしは絶対にアイツを許さないッ!」
オリーヴがコンラッドを睨んで叫んだ。コンラッドもヴォルフラムも沈黙し、静寂が訪れる。
緊張が伝わって来て、私はコンラッドの横顔を見つめた。彼は何を思って、何を考えているのだろうか――…。
「彼は…」
コンラッドが何かを言い掛けたので、全員の視線が痛いほどに本人に集まる。コンラッドはそれらの視線を感じながら、息を吐き出して、呼吸を整えた。
「彼は、二十年放浪の旅を続けてきた。名誉もなく、絶望を抱えての旅がどんなものだったのか。あの姿を見れば――…解る」
「ヤツを許すと?」
低く唸ったグウェンを、コンラッドはキッと目を鋭くして睨む。
「……俺が許せないのはっ!陛下とサクラに剣を向けたことだッ」
「「――!!!」」
オリーヴとグウェンダルはコンラッドが吐き捨てるように言った言葉に、目を丸くした。ヒューブが陛下と姫に剣を向けたことは知らぬかった二人。
視線を床に落としておったオリーヴは、コンラッドを見つめる。
まさかコンラッドがそんな理由で、許せぬと言ったのには私も目を丸くした。ユーリも、瞬時にビロン氏との会談でヒューブに剣を向けられた記憶が蘇って、あ…と声を漏らした。
陛下であるユーリだけでなく、私にも剣を向けたと怒ってくれておるのは――…それは、漆黒の姫に対する忠誠心なのか。
それでも、この場でそう切り返したコンラッドの言葉に、私は嬉しく思った。少なからずジュリアでなくサクラを考えてくれているのだから。
「二度と――…」
平静を装っているように見えて実は怒っているのだと。湧いてくる怒りで剣の柄に添えたコンラッドの手から、カタカタ音がしているのを耳にして――ヴォルフラムは、はッとコンラッドを見た。
サクラとユーリに剣を向けたことにも当然怒りは覚えているけど、コンラッドは平然とサクラの前へと現れたヒューブを善く思ってない。
だけど、敢えてこの地を踏むことを反対しないコンラッド。
「――彼を二人に近づかせるつもりはない」
「…あぁ」
グウェンは静かに頷いた。
「それはあたしも異論はないけどね。ウェラー卿コンラートッ!」
「なんだ」
オリーヴは納得がいかなくて、高ぶる感情のままコンラッドの名指しした。
のこのこと帰って来たヒューブも許せないけど、オリーヴは、のこのこヤツを連れて帰って来たコンラッドが許せなかった。
…――仮にもサクラ様の婚約者なのに、婚約者であるコイツが誰よりも彼を許してはいけないのにッ!
「サクラ様をあんな目に遭わせたゲーゲン・ヒューバーをっ、何で簡単に許せるのッ!何もかも失って、旅をしたかなんだか知らないけど……それは自業自得じゃないッ!何人死んだと思ってるのッ!?」
「俺は、簡単に許したわけじゃないっ!!」
オリーヴの叫び声に、コンラッドは負けないくらいの声量で怒鳴った。別にコンラッドはアイツを許すとは一言も口にしておらぬ。
オリーヴとコンラッドの言い合いが激しくなって、私は目が離せなかった。耳も鋭く機能していて。ここでまた己の名が出てきて、心臓が不規則に飛び跳ねた。
「何よっ!さっきゲーゲン・ヒューバーに味方したじゃないッ!…――アイツには生き地獄を味わあせなきゃ、あたしは許せない。幸せになるなんて許さない。ウェラー卿は御許しになられたみたいですけど」
庇うような言葉を吐いておいて、この期に及んで許したわけじゃないと怒鳴る男に、オリーヴは怒りで頭の中が沸騰するのを感じた。
「! 俺は、彼のしたことを許すつもりはない」
「アンタねッ!」
「ならば何故、あいつをこの地に連れて来た」
この質問が最後だとグウェンダルは、オリーヴの言葉を遮って、そう問いかけた。他でもないサクラの婚約者であるコンラッドに。
「陛下もそうだろうけど……直接、関わっているサクラだって、彼を許すと思うんだ」
「サクラ様は知らないから」
フンッと鼻を鳴らすオリーヴに向かって、コンラッドは頭を左右に振った。同時にサクラとユーリの姿を脳裏に浮かべる。
「知っていても俺はサクラが彼を許すと思う。二十年も苛酷な旅をして罪を背負う彼の姿に、何も感じない御方じゃない」
「サクラもユーリもお人好しだからな」
自分が続けて言ったことに対して、ヴォルフラムが素直に頷いたのを横目に――コンラッドはサクラの笑みを頭に浮かべて、深刻そうだった表情を柔らかく緩めた。
「サクラが許すのに、俺が反対していたら、過去のサクラに合わせる顔がない。それに、サクラが彼を許すと望むなら、俺もそうしたい。サクラの気持ちを汲み取りたいんだ」
サクラを想って敢えてそう結論したコンラッド。
誰よりもあの男に憎しみを持っておるはずのコンラッドが、敢えて出した結論に、オリーヴもグウェンダルも、グッと押し黙って何も言えなくなった。
サクラを想って優しい表情になる一つ上の兄の笑みに、ヴォルフラムはこんな表情も出来るのか…その笑みは嫌いじゃないなと、心の中で独りごちる。
話題の中心である私は、壁からそっと体を離して、ユーリと一緒に押し黙った。
己の知らぬ所で、知らされておらぬ話題で、いつも傍にいてくれた人達が深刻そうに話を展開させておって、複雑な心境と共に―――…あんなにも、私が知らぬ“過去”も、記憶がない今の“私”のことも想って決断をしたコンラッドに、盗み聞きをしているこの状況に、居た堪れなくなった。
「ヒューブの様子、見に行こう」
『…うぬ』
ユーリも私も、お互いがお互いに顔を見ずに、言葉を発し合った。
(コンラッドの姿と、)
(オリーヴの必死な姿が――…)
(……頭から離れぬ)
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