12
打ちひしがれていたヨザックは、背後の通路を振り返って、誰もおらぬのを確認した後、私を見て口を開いた。
「たいちょ…じゃなかった…。あー…お嬢さんの婚約者殿に怒られても知りませんよ?まあここにいる時点で、怒られるでしょうけど」
『――っ』
ドクン
「サクラおねぇちゃん…婚約者がいるの?」
『うむむ…』
婚約者と訊いて、鼓動が大きく跳ねる。
コンラッドの事を言っておるのだろう。手錠をされた左手の薬指で存在を主張しておる指輪を見て――またドクッと心臓が大きく脈打った。
――はッ!
『いかん、いかん!動悸、息切れが…』
「は?」
『度々、心臓がドクッとするのだ。心臓の病気か…あーいや…ひょっとしたら修行のしすぎで呼吸困難なのかもしれぬ…』
「……は」
自由の利かぬ両手で胸辺り押さえて、誰に答えを求めるでもなく小首を傾げた。
魔力の使い方にも慣れて、魔笛探しの時に玄武に軟弱だと言われた事もあり、毎日精神世界での修行を欠かせずにしており、今では魔力のコントロールはお手の物だと自負出来ると思う。
――でも…動悸がするって…肉体が追いついて来てないのかもしれぬ。
『やはり…筋肉は必要か?』
ヨザックの肉体を羨望の眼差しで見つめて、サクラは羨ましげに溜息を吐いた。
筋肉トレーニングは…ことごとくオリーヴに邪魔されるのだ…。……筋肉…欲しい。
ヨザックの腹の筋肉から、視線をずらしたら――…ヨザックはポカーンと豆鉄砲を食らったような、間抜けな顔をしておった。
『…何だ、その呆けた面は。より一層、間抜けに見えるぞ』
「いやいや。…えッ、え?」
『何だ?――そう言えば、全貌は掴めたのか?』
「え、あっはい」
『そうか…ならば…――(暴れても大丈夫なのだな)』
「えっと…サクラさん?」
『何だ、さっきから。申したい事があるなら、さっさと言え』
「動悸、息切れって……婚約者殿のことを考えたら〜の前提で、じゃなくて?」
『……。言われてみれば…確かに』
「それって…」
途端、何故かヨザックは頭を抱えだした。
――質問だけしたと思ったら――何だ…その反応はッ!
サクラはグウェンダルのように、眉間に皺を作った。
「(幸せへの道のりは長いですよ〜隊長〜!)」
「おねぇちゃん、おねぇちゃん」
『――うぬ?』
「サクラおねぇちゃんは、その婚約者さんのことが、とっても好きなのね!」
「――!」
さっきまで、沈んでおったレタスが、キラキラした瞳で、私の腕を引っ張ってそう言った。
ヨザックは、第三者が介入したらややこしくなると、敢えて言わなかったのに……この子言っちゃったよー!と、頭に手をやった。そして、サクラの反応が気になって、彼女を見たら――…
『……ぇ、それは…まぁ…嫌いではないが…』
困惑しながらも、サクラは、眉間に皺を寄せたままそう答えた。
その反応に、少しは前進を期待していたヨザックは、息を吐き出しながら肩を大きく下げた。
――何だろう…。
隅におる他の子供達からも、生暖かい眼差しが、私に向けられておる気がするのは……気のせいだろうか。
『――!』
――少々、五月蠅くしすぎたか…。
奥にあった人の気配が、動くのが、判った。目を鋭くして、ヨザックの背後のドアを見遣る。
『――来る』
「ぇ…おねぇちゃん?」
私の豹変に、ヨザックも目を鋭くさせ――私は、レタスを背後に庇って壁の隅に移動した。
ガチャ
「よお、見張りお疲れ」
音を立てて入って来たのは、今日も“ようこそ!パプリカ”へと来ていた、中年のオッサン。嗚呼…そうであったゲスさんだ。――名前の如く、下衆だ。
後ろにはレタスを引きずっていた大男二人と、まだ見た事がなかった体格のいい男が一人立っていて――…ゲス含めて下品な笑みをニタニタ受けべておった。
生理的に…ゾワッと背筋に悪寒が走ったが……警戒を怠らず、目の前のゲスから目を離さず、睨みあげる。
「やあ、サクラちゃん。さっきぶりだね」
『……』
ヤツらが入って来た途端、震え始めた子供達をゲスは一瞥して、私に目を留め、店ではいつも明るい笑みを絶やさぬ人だったのだが――…今は、欲望に忠実な笑みをねっとりと浮かべておる。
ここ四日ほど――毎日会っておったのに…まんまと、こやつに騙されたのだと舌打ちしたい気分だ。
背後に大男たち三人を従えておると言う事は――ゲスがやはり主犯なのだろう。
ゲスと視線を合わせたまま、私は殺気を瞳に込めた。
「そうカリカリ見なさんなって、サクラちゃ〜ん。これから楽しい事が待ってんだ、か、ら」
そう言って、より一層笑みを深めたゲスに頭が警報を鳴らす。
『…楽しい事だと』
「そう」
ジリジリとゲスが私に近づく度に、私も後ろへと下がりたかったが、私の背後はレタスがいてその後ろには壁だ。これ以上逃げる所がなかった。
見上げるだけになった私に、ニヤニヤ笑って、ゲスはしゃがみ込み私と目の高さを同じにした。
近くなるゲスと私の距離。
脂の乗った中年独特の肌をした顔で、ゲスの顔が尚も私に近づき――私は、ガンガンと警報を鳴らす本能に従って、顔をヤツから逸らした。
――刹那――…
ガンッ
『っ、ぁ』
「おねぇちゃんッ!」
襟を掴まれたと思ったら――…後頭部に痛みを感じた。
目を開ければ――未だ襟を掴まれたまま、ゲスはニヤついた笑みで私の上に乗っかった体勢で、上から私を見下ろしていた。
「サクラちゃん、痛い思いしたくなかったら、抵抗しないでね」
ここで初めて、これから己の身に何が起こるのか判って、サクラは目を大きく見開いた。
こんなヤツ、簡単に伸してしまう事など容易いのに……言い知れぬ恐怖に思考が停止して、固まったまま。
その間にも、ゲスは、サクラの手を上に片手で押さえつけ―――サクラの白い首筋に、顔を埋めた。
ゆっくり。
ゆっくり。
ヤツが私の首に近づくのが――…私の眼にはスローモーションで映った。
――怖い。怖い…。
嫌悪感で背筋がゾワゾワッとして、涙も溢れ出るのが己でも判ったが――…金縛りにあったかのように動けぬかった。
恐怖から目をギュッと閉じた瞬間――…
『――ッ』
首筋にガリッと音と共に、痛みが走った。
抵抗しようとしたのだが…両手は手錠がされてある上に、さらにその上からゲスの手で押さえられてる為に――…動かそうと躍起になっても手に力が入らず、ゲスの力に対抗出来ぬかった。
――これが男と女の差か……。
戦いならいざ知れず、覆いかぶさられると…全く歯が立たぬくて私は悔しさから下唇を強く噛んだ。
そうでもしないと…屈辱と嫌悪感で己がどうにかなりそうであったから。
左の首筋に痛みを感じた後に、ぬるりと生暖かい“モノ”が、肌を這う感触を感じた。
『(気持ち悪い、気持ち悪いッ)』
――恐い、怖い。悔しいッ!
感じた事のない感情の起伏に――脳裏に浮かんだのはコンラッドの優しく微笑んでおる姿だった。
「サクラおねぇちゃんは、その婚約者さんのことが、とっても好きなのね!」
―嗚呼…。
『コ、ンラッド…』
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