月と恋は満ちれば欠ける
ぱしっ。手の中、取った腕が硬直する。
「どこ、行くんだよ」
「……起きてたの、跳ね馬」
ベッド脇、腕を掴まれた「女」が振り返る。その目は珍しく揺れていた。
「お前、オレをなんだと思ってんだよ。こう見えても名だたるキャッバローネのボス、10代目」
「ドジの天才の血を引く10代目とかなら私も認めてあげられるんだけどなあ」
「どじじゃねーよ!」
「やだなあボスさん、どじっこは皆そう言うのがテンプレなんですよ〜」
「どじっこ、ってまず『こ』がおかしいだろ」
「じゃあどじ男?」
「可愛さも何もねぇ」
「同感。普通にキモいだけだなぁ」
「お前はボスの精神削って何が楽しいの……」
ぐったりシーツに突っ伏す。それでも掴んだ右腕は放さなかった。
「……放して頂けませんかね我らがボス」
「どこ行くんだ?」
「やだあ女性に野暮な事。お花摘みです」
「笑えねぇなあ相変わらず。銃持ってトイレに行く奴がいるかよ」
「世の中物騒なんですから対策しておかないと。ロマーリオが天井突き破って落ちてくるハプニングが無いとは言い切れませんよ」
「むしろあったら見てみたい」
「いやそれ普通にただのホラーなんで」
自分で例をあげといてあっさりばっさり切り捨てる。ディーノは苦笑し、うつぶせのまま相手を見上げた。
「エルザ」姿の部下はツインテールをくるんと揺らし、完璧な女装モードで佇んでいる。その表情に感情は無い。
「で、どこ行くつもりだよ」
「大体馬鹿げてますよいい歳した大人が。隣に部下がいないと寝られないだなんて」
「オレの言葉は綺麗に無視か。んでもってこれはオレじゃなくてお前のせいだろ、10歳の時からお前が人肌恋しがって仕方ねーから」
「はいはいボスー、私今年でいくつでしょう」
「25」
「そうなんですよ大正解、ひとりのベッドで大泣きした10の時から早15年、今じゃ私も幽霊より金と人間が怖いお年頃になりまして」
「つまり?」
「レッツ別々ベッドタイム」
「ちょっとリズム良いと思っただろ今」
「ちょっと」
「で、どこ行くつもりだ?」
エルザが微笑む。聞き分けの無い子供でも宥めるような顔付きだった。
「あなたのおかげで子供はこんなに立派に育ちました。自分の行動に自分で責任は持てるんでもう大丈夫ですよ、マイファザー」
「レッツ親離れ子離れ、ってか?」
「イエスマスター」
「ちょっとリズム良いと思っただろ」
「いや今のは正直微妙」
掴んだ腕に、ぎゅっと力を込める。
「オレさ、」
エルザの顔が微妙に歪んだ。痛かったのかもしれない。
「……お前のそういうところが、ほんと好き」
そのまま、ベッドへ勢いよく引きずり込んだ。
目の前、開かれた瞳に動揺が走る。重力に従いディーノの真上に落ちかけて、反射だろうがエルザは思いきり手と足を突き踏ん張った。
自分を押し倒すような格好で見下ろす『彼女』を見上げ、ディーノはその肩を掴んでぐるっと体をひねる。あっという間に体勢逆転。
「……は、ディ、」
「イル」
本名の方で呼んだ。我ながら驚いたことに、懇願するような声が出た。
相手は目を見開く。そこには様々な感情がひしめいていた。
「エルザ」の瞳の底、イル自身の感情が。
「……言えよ。好きだって」
「……え」
「恭弥が、」
恭弥が、好きだって。
▽ 15年前、子供を拾った。
路地裏、名も無い荒れた町の片隅だった。自分を見上げた目は、町と同じくらい荒んでいた。
名前も無いと言った彼に、イルと名付けた。
屋敷に招待した。なぜそこまでしたかは覚えがない。
思えば、その時から予兆はあったのかもしれない。
△「……ディ、ノ?」
「恭弥が……」
真下の瞳が、怯んだような色を帯びる。
心臓が鳴ったのは男の性だ。こんな場面でさえ、好きな相手を組み敷けば熱が上がる。
▽ 仲良くなれればいいと思った。今までなかったであろう、思い出というものを作ってほしいと願った。
それでも、並盛でなく黒曜に送り込んだのは、やはり意図的だったのかもしれない。
無意識のうちに、考える前に。
初めて弟子と引き会わせたあの日、
隣に立つ彼の目いっぱいに、はためく学ランが映り込んでいるのを見てしまったから。
▲「……好きだ」
吐き出すように言う。片手を上げて、その頬に添えた。
ビクリ、大げさなほどに肩がすくむ。僅かに開いた口が、言葉を探しているように見えた。
好きだ。逃げ道を作って吐き出した。
先の言葉と繋げば、できあがる文章は「恭弥が好きだ」だ。込めた真意は伝わらない。
いや、伝わらなくていいと思った。伝わってしまえば終わる。
切り離した「好きだ」に込められた、自分の感情など。
▽ 15の時にイルは日本に行かなくなった。黒曜中を卒業してから本格的にマフィア事業に手を付けだして、けれど日本にだけは出向かなかった。
ディーノも無理には誘わなかった。日本へ行く時は自分だけで行った。
多分、そのくらいの時期だった。イルが、「エルザ」を演じるようになったのは。
△「……ディーノ」
呼ばれた名前に返答はできなかった。
言うべき言葉が見つからない。正しいのがどれかもわからない。
▽ 20の時の任務で、イルがボンゴレの雲と接触したと聞いた。嫌な予感がした。もしかしたら、という不安はあった。
だが、帰って来たイルはいつもと変わらなかった。
その首に、まるで悪意の表れのような深い噛み痕を残したまま。
△「もう、」
やめよう。
そう言いかけたディーノの唇を、自分の物では無い冷たい手のひらが塞いだ。
▽ 裏切りを促したのはイルだ。
今でも覚えている。部下を亡くした、その夜だった。
頭を抱えたまま机から動けずにいる、そんな自分に「彼」が確かに何かを言った。記憶にある。それが、おそらくきっかけだったのだから。
おかしなものだ。あの時頭を優しく撫でた手も、頬に零れる涙を拭った指先も覚えているのに、投げかけられた言葉は僅かも覚えていないなどとは。
△「……俺は、お前のためならなんでもできるよ、ディーノ」
口を塞いだ手のひらの下、やたら強い光を宿した目でイルが言う。
「だから、お前は笑っていてくれればいい」
▽ 親愛が恋情に変わっていたのは必然だった。
きっとはなから惹かれていたのだ。そういう道筋だった。仕方ない。
だからこそわかっていた。イルがどこを見ているかも、雲雀恭弥が何に戸惑っているかにも。
だからこそ。
△「……オレは、お前の中でずっと、どんな存在なんだ」
「凄いな、俺の懇親のデレは見事に無視か」
「答えてくれよ」
外した手のひらを強く掴む。握り込んだ指先は、思っていたより細く小さい。
▽ 9も離れていればよくわかった。端から見ているのだから尚更だ。
踏み込まない2人、追い掛けるだけの六道。純粋に想いを寄せるクローム。
若さゆえのまどろっこしい恋愛。誰もが次の一歩を望みながら、けれど動けないでいる。
それを、きっと親のような気持ちだけで見ていられたなら、ただ微笑ましく思えたのに。
△「イエス・キリスト」
「は?」
「ゼウス」
「はあ」
「八百万の神」
「お前どんどん変な方向行ってるからなソレ」
笑いと呆れの中間みたいなため息が出た。今自分が零すべきなのは涙か不満か。
「神だよ」
だが、イルは珍しく真顔で言った。
「神だ」
▽ 自分のために、自分のためだけにと動いてくれるイルは可愛かった。
恭弥と情報共有のために体を繋ぎ利用し合っていると知った時は、さすがに驚いた。だが僅かな罪悪感はすぐに胸底へ沈んでいった。まるで花が泥沼に沈むかのごとく。
大人げないとか可哀想だとか、そんなお綺麗な感情はとうに霞んだ。手放せるほど大人ではないし、イルを突き放して可哀想になるのは自分だ。
本当に人肌恋しいのは、拾った10の時から駄々をこねているのは、イルじゃない。
自分だ。
親愛は愛情になった。もっと簡潔に言うなら好きだった。
だから、恭弥を忘れ去ろうと、初めての恋を無かったことにしようと、そうしてディーノに尽くすイルをディーノ自身、拒まなかった。
イルの中で止まった時間を、利用し続けた。
△「……オレはそんな立派な人格者じゃねぇぞ」
「何言ってんの当然だろ、鏡見てからもっかい出直してきてよ」
「お前がさっきそう言ったんだろ!」
「何の話かな?歳取ると物忘れが激しくて」
「急にすっとぼけるな青二才」
「こう見えても俺25歳」
「ホントお前のそういうところが、」
好き。何度目かもわからない執着。
言う度それは枷になる。押し倒した下で笑う彼の首に鎖を増やす。
知っている。知っていてやるのだから、自分は。
「……ディーノは、神様だよ」
笑んだ唇の上で瞳が歪む。泣く雰囲気なんてちっとも無いのに、涙でも似合いそうな目付きに変わる。
「……俺にとっては、永遠に」
神に尽くすために恋を捨てるのか、恋を捨てたいがために神に尽くすのか。
わからない。ディーノにわかるのはただひとつ、
恋愛対象に神は入らない、ただそれだけ。