「もう少しだけ、側にいて」
■ ■ ■
「あー……」
その願いだけは、聞けないかな。
困ったように口を開けて、頭をかきながら由紀は笑う。ちょっと昼飯忘れたわ、そんなくらいのごくごく軽いノリで、あっさり。
「信じられない。あんたってほんと、最低な奴」
「ネズミに言われたかないね。何人女、ひっかけてきた?」
「ひっかけてなんかないさ。向こうから勝手に来るんだ」
「俺を嫉妬の海で狂わせて、ねぇ」
軽率に笑う、その顔はいつもの顔だ。いい加減で大げさな、バカバカしい言葉遣いも、いつも通り。
なんとなく、冷めた。教室に並ぶ、どこでも同じような机のひとつに腰掛けて、ちょっとだけ首をかたむけて笑う由紀を見て、底冷えした。体ではなく、胸の内が。
沈みゆく夕焼けを背に受けて、両足を空で組んでゆらゆらさせる、その姿にどうにもこうにも苛立ちが募るのだ。
苛立ち、ではないか。嫌気。
そう、嫌気がさすのだ。
「……思ってもないこと、言わないでくれる」
「思ってもないこと、って?」
「嫉妬なんて、したことないだろ。あんた」
由紀が目を開く。本気で驚いた様子だった。
夕陽が、その背を眩しく縁取る。目に痛い光。
「そんな事、無いと思うけど?」
「嘘吐き」
そうやってへらっと嘘をつける、あんたのそういうところが嫌いだよ。
そう吐き捨ててしまえればよかった。けれど結局、自分は皮肉っぽく微笑んで立ち上がるだけで、内心の毒を吐けはしないのだ。
だって、自分はまごうことなく、由紀の事が好きだから。
「ネズミ?帰るのか?」
「ああ。あんたも早く帰りなよ、また寝坊するぜ」
「そうだな。もう少し紫苑を待って、それでも来なかったら、帰ろうかな」
廊下へと行き掛けて、振り返る。由紀は相変わらず足を浮かせて、ピピッと小気味のいい音とともに、腕の小型端末をいじり出していた。
生徒会役員の紫苑は、多忙だ。それでもこの少年は毎日律儀に紫苑を待つし、一緒に帰る。
家が隣だというのもあるのだろう。由紀と紫苑は、仲が良かった。ネズミが出会うずっと前から、そうらしい。いつのことだったか、あの2人の間には割り込めないわよと、あの沙布が真顔で肩をすくめそう言っていた。
そうだな。自嘲の笑みが、唇をゆがめる。
馬鹿だとは思うんだ。この俺が、まさかあんたを好きになってしまうだなんて、そんな。
「ネズミ?」
不意に、由紀が顔を上げる。端末はぴかぴか光り反応を示していたが、由紀がそちらを気にかける様子はなかった。ただ不思議そうに、自分を見ている。
「どうしたんだ」
「……いや」
ゆらり、由紀の足が揺れる。夕焼けに彩られ、やたら長い影がくっきりと落ちる。いやに目に染みる、対照的な色。赤と黒、光と闇。
唾を飲み込んだ。なんとなく、嫌な色合いだと、そう思った。
由紀は、今日も紫苑を待つのだろう。明日も明後日も、そうしてずっと。
浅ましい、嫉妬の感情は覚えなかった。むしろ、哀れみを感じた。待たれる対象の紫苑に対してだけではなく、習慣のように1人教室で待つ、由紀にも。
いつか必ず、そんな日々は暴力的に終わりを告げられてしまうのに。
「……由紀」
「何?」
「あんた、」
なあ、嘘なんだろ。
あんたがいつか必ず、この夕暮れの教室から姿を消すだなんて、そんな。
だってあんたは、大嘘つきだし。
そう言いかけて、言葉の全部を呑み込む。なんでもないと、首を横に振った。由紀は一瞬きょとんと瞬きをし、それから笑う。
珍しいな、ネズミが歯切れ悪いだなんて。
教室を出て行く寸前、最後に聞こえたその言葉は、あまりにも軽やかだった。
なぜだか一瞬、明日も明後日もその次も、ずっと普通の日常が当たり前にある、そんなありえない勘違いを、でも確かにしてしまいかけたほどに、由紀の言葉は何気なく、そしていつも通りだったのだ。
やがて、彼はこの都市に殺されてしまうのに。