アポロンの啓示 | ナノ

*感情の断片を抱えて万華鏡はただ回り続ける
・ファントム→リク←アルヴィス
・夢主は元メル、無理矢理チェスへ
・アルヴィスinチェス設定






【感情の断片を抱えて万華鏡はただ回り続ける】





「リク」
背後から突然名前を呼ばれ、俺はぴくりと肩が揺れるのを感じた。
短く息を吐き、出来る限り何とも思っていない体(てい)を装って振り返る。
「…ファントム」
にっこりと人の良さげな笑みを浮かべ、足音を響かせながら廊下を歩く男。
どこにでもいそうな、と形容するには顔が整いすぎているこの青年は、しかしその実とても「普通」とは呼べない。
大体、「青年」と呼ぶにも語弊がある。なぜなら今廊下を悠然と進むこの男は実際年齢は30を越える筈で、
さらに言えば1度「死んでいる」躰で、
つまり伝説の中の吸血鬼と同じく、永遠の生命を所持している訳だ。
だが吸血鬼に等しい存在とも断定出来ないその理由は実に簡単で単純で、
俺の一歩前で歩みを止めたこの男は、廊下に差し込む日の光をどれだけその躰に浴びても、灰と化す事は無い、ただそれに尽きる。
「…順調かな?」
頭1つ分上、腹立だしいことに俺と同じ赤い瞳に愉しそうな色を浮かべ、突然意味不明な言葉を発するファントム。
「…何が」
見上げる位置にある瞳を睨み付け、俺は苦々しい思いでそう吐き捨てた。
大体主語が無い。ついでに言うならまともな助詞も無い。
つくづく思う、こいつは思考回路と言語機能、付け加え行動原理にかなりの問題点がある。
例えば、本当なら俺はチェスの根拠地であるこのレスターヴァ城なんかじゃなくて、
メルのメンバーがいるレギンレイヴ城で修練の門に入っている筈なんだ。
ウォーゲームで共に戦う、っていっても俺は元々他人と和気あいあい、なんて柄じゃないしする気も無かったけれど、
まあなんていうか、メルの面子は、はっきり言ってしまえば全員お人好しの大バカで、
特に異世界から来たとかいう金髪の少年はとんでもない甘ちゃんの癖に大将で、
とことん冷たく接触する俺に、何処までも声を掛けて付きまとってくる、
つまり、

今迄会った事の無い類(たぐい)の人間、

だった。

それを言うなら他の奴等も奴等で、
悪名高い魔女と評判されながら、ふとした瞬間に年頃の女の子な一面を見せる年上の割に妹みたいなあの少女も、
呆れるくらい弱くてガイラに良いように痛めつけられながらも必死で足掻くあの田舎坊主も、
訳の分からない構造をしている癖にやけに説教をかましてくる自称紳士の意味不明なあのアームも、
どう見たって自ら戦うより守られてるタイプで、実際今迄そうやって生きてきたに違いないのに強がる純朴でひたむきなお姫サマも、
酒と女のコが大好きで、絶対に頭のネジがどっか緩んでると見えてその実ボスとしての自覚もきっちり持った、しかもやたらと俺に絡んでくるあの青年も、
そしてそんなメンバーを鼻で笑いながら(しかも腹立つ事に俺までガキ扱いしながら)、それでも温かく見守っているあのおっさんも、

皆、出会った事の無い人達だった。

気付けばペースを乱されて崩されて、俺は鬱陶しいと思いながらそれが結構悪くないと思い始めていて、

いつの間にか大切になっていた。
居場所が、出来ていたんだ。
何処にも無かった筈の、俺の居場所が。

なのに、
こいつが、


『取引をしない?』


……違う、か。
乗ったのは、


俺だ。




「…何考えてるの?」
いつの間にか深い思考の中に沈んでいたらしい俺は、ファントムの声に我に返った。
思考、というよりは、回想、かもしれない。
…馬鹿馬鹿しい。
どれだけ思い出したって、戻れるわけも無いのに。
「…別に、何も」
視線を逸らし、答える。
俯いたら負けだと思いながらも、上から降ってくる視線を避けるには下を向くしかない。
そのまま、無音。
動きの無いファントムを奇妙に思い、俺は眉をひそめて顔を上げようした、
その刹那、
「…っ…?!」
躰中に走った激痛に、膝が崩れた。
その場に片膝をつき、なんとか転倒は免れる。
「…順調、みたいだね」
ぐい、と顎を上げられる。
不覚にも息が上がってしまった俺の顔を見て、ファントムは微笑んだ。
腹の底から込み上げる憎悪。
素直に感情に従い、俺は喜々とした光を浮かべる赤い瞳を睨み付けた。
「…通常よりも早く進行させてるから、痛みもその分強いと思うけど、もう少し我慢してね」
激痛の元凶は、まるで幼子にでも言い聞かせるような優しい声音で言葉を紡ぐ。
「何が、」
我慢してね、だ、
と言い掛けた俺の喉元によぎる、皮膚が切り裂かれるような激痛。
「…っ、ぁ、」
吐き捨てようとした言葉は結局声にならず、ただの喘ぎに変わった。
「…もう少し、理解した方が楽だよ」
反射的に首元を右手で押さえ付けた俺に、ファントムは至極楽しそうに笑った。
「…君はもう、メルには戻れないという事を」



廊下をふらふらと歩く少年に、見覚えがあると気が付いたのは数秒前。
「……リク?」
ロランは戸惑いながらも声を掛けたが、返事は無かった。
一瞬不審感がこみ上げたが、音も無く射し込む陽光を浴びて黒く輝くその髪は、紛れもなくリクのそれに違いなかった。
「リク、どうしたんです?」
ロランの再三の声掛けにも応じず、リクは今ひとつしっかりしない足取りで歩みを進めている。
何となく胸騒ぎがして駆け寄ったロランは、その顔を覗き込んでぎょっとした。
壁に手を付き、おぼろげな足取りで前へ進むその少年の顔色は、死人のように真っ青だったのだ。
ぼんやりとしたその瞳にはいつもの鋭い赤色は宿っておらず、どこか虚ろな視線を彷徨わせている。
「リク!」
驚きに声を上げたロランは、思わず腕を伸ばしてその肩を抱いた。
それを待っていたかのようにリクの躰の均衡が崩れ、ロランに体重が掛けられる。
さほど重くはなかったが、それよりも首筋にかかる浅い呼吸音に気がいった。
「…リク、ちょっとどこかで休みましょう」
とてもじゃないが普通の状態じゃない。
何があったか知らないが、このまま放っておくのは危険だろう。
ただでさえ、メル側の人間だという事に快く思っていない連中がいるのだ、弱った状態の彼を歩かせておくのは得策ではない。
ファントムがした事とはいえ、元メルであったリクの存在を危惧するチェスは多いのだ。
…少し前までの、自分を含めて。
「リク、ちょっと待って下さいね、どこか近くに…」
リクに肩を貸したまま、ロランは辺りをきょろきょろと見渡して、
「……あっ、と…」
目に止まった扉を見つめ、しばらく思案した。が、
「…アルヴィスさんなら、きっと大丈夫でしょう」
結局、冷たいドアノブに手を掛けた。



「ロラン?どうしたんだ?」
ノックもせずに入り込んできたロランに、眉をひそめて読んでいた本を閉じる青年。
青い髪に碧い瞳のその青年の顔立ちは、いっそ畏怖すら感じる程に整っており、陽光を浴びてまばゆく光る白いシーツのベッドに浅く腰掛けたその姿は、まるでよく出来た彫刻のよう。
だが彼は大理石から造られた彫刻などでは無く、正真正銘血の通った人間である。
チェスのナイト階級(クラス)でも異質な存在感を放つ、強大な魔力とアームへの集中力を保持する聡明で冷たい美青年。
だがその中身が冷徹なばかりではない事を、ロランはよく知っている。
でなければ、ファントムが気に入る理由が無い。ただ冷たく残虐な破壊魔にファントムは目をかけない。
「突然すみません、ですがノックの必要は無いかと」
「…まあ、部屋の前にいたのがお前なのはわかっていた」
暗に魔力を察知していたであろう事を指摘すれば、あっさりとそれを認めるアルヴィス。
自分の力を無駄に誇る事も見せ付ける事もない、そんな所がまた彼が一目置かれる所以(ゆえん)なのかもしれない。
「…そいつは」
立ち上がったアルヴィスが、ぎゅっと眉間にしわを寄せる。
その碧い瞳が向けられているのは紛れもなく、
「…彼を、少し休ませて頂けないかと」
肩を貸す、というより最早抱きかかえている、に近い状態にあるリクにちらりと目をやり、ロランは懇願した。
「…どうしたんだ、そいつは」
先程からの「そいつ」呼ばわりと微妙に感じる警戒心に、まずかったですかね、という思いがロランの脳裏を掠めた。
「詳しいことはわかりませんが、さっき廊下で会った時からこのような状態で…」
なるべく相手の警戒心を煽らないように答え、そっと1歩前に出る。
アルヴィスもこちらに1歩踏み出した。
追い出されるかもしれない、そう思ったのだが、驚いたことにアルヴィスは未だ浅い呼吸を繰り返すリクの額にぺたりと手の平をあてただけだった。
「…随分、魔力が荒れているな。熱は無いようだが」
予想外の行動に目をしばたかせるロランに、アルヴィスは不審そうな目を向けた。
「…なんだ?休ませてやるんじゃないのか?」
「……え、あ、いえ、はい、」
お願いします、と我に返ったロランは慌てて傍らのリクを引き摺るようにしてベッドまで運ぶ。
そのままシーツの上にゆっくりと寝かせたが、リクは目を閉じたままぐったりとしていた。
「一体、どうしたんでしょう…」
「さあ、本人に聞かなければわからないな。だが誰かにアームで攻撃されたという様子ではないし…」
苦しそうなリクの呼吸を少しでも楽にしようとしたのか、アルヴィスは上まできっちり閉められた上衣のファスナーに手を掛け、何の気なしに下ろし、

手を止めた。

「……ロラン」
「え、はい?」
ベッドの上のリクの姿は、その傍らに立つアルヴィスの背中でほとんど見えない。その肩越しにリクの様子を見ようとしたロランは、唐突に名前を呼ばれて首を傾げた。
「…タオルと、氷枕、持ってきてくれないか」
「…え?」
「ああ、タオルは大量の方がいいな。あと出来れば他にも何か介抱に使えそうな物を」
「え、あっ、はい」
畳み掛けるような突然の発言に目を白黒させながらも、ロランは元々の性(さが)からか、素直にアルヴィスの言葉に従い部屋を出た。
アルヴィスさん、なんだか様子が変だったような、とわずかに首を捻りながら。



背後でドアが閉まる音に、アルヴィスは小さく息を吐いた。
とっさにロランを出ていかせてしまったが、不審に思われなかっただろうか。
あまり早く帰って来ないといい、とアルヴィスは自分が下ろした少年のファスナーに目を落とした。
どうせなら、このまま部屋に戻らないでいてくれないだろうか。
例えば氷枕を作ろうとして氷を床に全部ぶち撒けるとか、あるいは階段ですっ転んでタオルをそこら中に散乱させるとか、で。
常のロランの間の抜けた一面を思い浮かべながら、それでも視線は少年の首元から離すことが出来ない。
自分とさほど変わらない年の割に、やけに細く白い首。
その鎖骨の上に、
黒々と光る、

不気味なタトゥ。

非常に見覚えのある、アルヴィス個人の価値観から言わせればあまり趣味が良いとは思えないその黒い蔦模様は、
つまるところ、
メルからやって来たこの少年が身に付けているにはあまりに不似合いな、

「呪いの印」

だった。



ゾンビタトゥ、
それがこの呪いの名称だった。
ファントムを敬愛してやまない一部の人間にとっては、それは呪いではなく洗礼となるらしい。例えばロランとかロランとかロランとか。
生憎アルヴィスにはそこまでファントムを慕う感情は無い。ただ、誰よりも近くファントムの側にいる以上、という義務感めいた思いと強く勧められた事によって、この身にタトゥを受け入れた。
皮膚を侵食するこの紋様が身体中を廻り切った時、自分はファントムと同じ存在になる、と聞いている。
つまり、
生ける屍。



正直、現実味が湧かない。
ナイトクラスの人間を始め、何人かは自分がゾンビタトゥを受け入れたことに対してあれこれ批判しているのは知っていたが、気にも留めなかった。
確固たる思いがあった訳ではないが、興味本位でも盲目的な感情でもない。
自分が入れようと思ったから入れた、ただそれだけの事。
しかし、
「…何故だ?」
無意識のうちに、少年の喉元を侵している黒い紋様を指でなぞっていた。
ロランがどう呼ぼうと、一般的には「呪い」と称される類の代物。
それを、ついこの間までメルだった人間が受け入れるとはにわかには考え難い。
しかも、タトゥの侵食は自分以上の早さを見せている。
どういうことなのか。
まだこれが、ロランのようになんらかの好意的な感情があるのだったら問題は無いが、この少年はチェスに来た時からファントムに対する激しい敵意を隠そうともしなかった。
おそらく、大人しくファントムに連れられて来た訳ではないだろう。アルヴィスの見立てでは、2人の間になんらかの取引があったのではないかと睨んでいる。
そして多分、この少年はその取引に「失敗」した。
少なくとも、彼の思うようにいかなかったのは確かだろう。でなければ、未だにチェスに従う様子も露骨な反抗心も見せない、どうにも中途半端な態度でレスターヴァ城に居続ける理由が無い。
だがまさか、
「…タトゥを入れられている、とはな」
するりと自分の口から入れ「られて」いる、という受身系の言葉が出てきたのには驚いたが、それは案外しっくりきた。
そう、おそらく、
入れ「られた」、のだろう。
それが取引の内容か、あるいは付加条件だったのか、そんな事は自分にはわからない。
しかし彼が苦しんでいる原因がこのタトゥであるのは間違いなく、
「…ん……」
突然聞こえてきた呻き声に、アルヴィスはとっさに手を引っ込めた。
瞼を震わせ、少年はうっすらと目を開ける。
弱々しい赤の光が瞬くのを見やり、アルヴィスは声を掛けた。
「目が覚めたか」
少年は数回まばたきをすると、すっと目を細めた。
途端、凝縮する赤い光。
ファントムと同じ目の色だ、と騒ぐ人間も少なくなかったが、同じには見えないな、とアルヴィスはふと思った。
同じ、と呼ぶにはあまりに軟弱で、
ひどく儚い。
「…アル、ヴィス?ここは、いったい…」
名前を知っていたことに驚きを覚えながらも、それをおくびにも出さずにアルヴィスは口を開いた。
「ここは俺の部屋で、ロランがお前をここまで運んできた」
手短に説明し、体調はどうだ、と再度問い掛ける。
別に心配した訳ではないが、首元から覗くタトゥに、なんとなく他人事とは思えなかったのは確かだ。
「…ああ、大分良い」
迷惑を掛けたな、と嘆息し、少年は身体を起こした。随分しっかりとした受け答えから見て、意識が朦朧とする前の自分の状態はよく把握していたらしい。
ーリク、そう、確かこの少年の名前はリクだった筈だ。
「…出て行く、すまなかった」
思考に耽っていたアルヴィスの態度をどう捉えたのか、リクはそう言って頭を下げるとそのままベッドから下りようとする。
だがその爪先が床に着くか着かないかの内に身体がぐらつき、
「うわ」
倒れ込んできた身体を反射的にアルヴィスは腕で受け止めた。
「…気をつけろ」
「…すまない」
溜息を付く、気配。
「…まだ本調子じゃないなら、休んでいた方がいいと思うが」
腕の中、顔を上げたリクが微かに目を見開いた。
「…なんだ?」
「…いや、別に」
視線を逸らし、リクはするりとアルヴィスの腕から抜け出した。
だが立った途端にぽすんとすぐ後ろのベッドに座り込む。
そんなリクの行動に首を傾けたアルヴィスに、彼は口の端を釣り上げた。
「…休んでいって良いんだろ?」
なかなか生意気な物言いだったが、
つまり、
ここで休んでいく、
と、そういうつもりらしい。
いや自分から言っておいてなんだが、まさか本当に休んでいくとは思わなかったので心底驚いた。リクはそんなこちらの内心を読み取ったのかどうか、「嫌なら出ていくけど?」と肩をすくめる。
「…別に、勝手にすればいい」
そう言い、アルヴィスもその傍らに腰を下ろした。
「…え、なんで隣に座るんだ」
「俺のベッドに、俺が座ってはいけない理由があるのか?」
眉を上げて問い返してやれば、リクは鼻を鳴らしただけだった。
奇妙だな。
そう思った。
メルとチェス。
いや、元メル、か。
そうはいっても、ほんの少し前まで敵対していた人間同士がこうして同じベッドに座り並んで黙り込んでいるというのは、やはりどうにも数奇としか言いようがない。
拳1つ分、微妙に空いた空間を隔てて隣に感じる人間の温もり。
日の光に反射して白く煌めくシーツに落ちた沈黙は、何故かそんなに気まずくもなくて、案外心地良いかもしれない、なんていう考えすら頭によぎった。
何故だろう。
別に自分に人並みの警戒心が無いとは思わない。さらに言うなら人懐っこいとは口が裂けても言えないし、愛想笑いの一つもまともにできない。というかしたいと思わない。
だからこそ、ほとんど初対面と言ってもいいこの少年と隣、こうして肩を並べていることがどうにもこうにも自分らしくなく、本当に妙なものだなとアルヴィスは息を吐いた。
ちらり、
横目で少年を伺う。
首を動かせないこの状況ではリクの半身しか視界に写らない。
2人の間の少しの隙間が、真っ白なシーツの空白をただぽかりと僅かに浮かび上がらせていて、
その間を詰めてしまいたい、
なんていう考えがほとんど衝動的に脳裏を掠めたから、
思わず動揺が咳となって現れた。
自分でもわかる程にわざとらしい空咳を何回か重ねて、内心かなり焦りつつ隣の少年へ横目をやった。
だがリクは焦燥に駆られているこちらとは真逆のようで随分と平然としており、さっきと何も変わらない非常に内心の読み取りにくい表情をしていて、
それが自分の大きな見間違いだと気付いたのは、
その目元が何かを堪えるように歪み、
唇が真横にきゅっと結ばれ、
反射的に上がった右手が喉元を強く抑え、
細い肩が静かに強張った、
その瞬間だった。
「リク、」
とっさにほぼ反射で口を開いたが、初めてまともに名前を呼んだ記念すべきとも言えるその声は、おそらく彼の耳には届いていなかっただろう。
アルヴィスが次の行動を取るより早く、
その躰が大きく均衡を崩し、
こちらの胸元へ倒れ込んできた。
「、っ」
優秀な脊髄反射が敏感に反応、何か考える前にその躰を受け止めていたのは我ながら上出来だった。
ベッドに腰を掛けたまま倒れてきたため、幸いというのかどうなのか、同じく腰を下ろしていたアルヴィス自身の躰のバランスは崩れる事なく安定している。
「リク、」
声を掛けたが、返ってきたのは荒い呼吸音だけだった。
アルヴィスは眉をひそめると、胸元に預けられた顔を覗き込む。
ぐったりともたれかかったリクの躰は、完全に脱力しきっていた。
閉じられた白い瞼だけ見れば眠っていると形容してもおかしくないかもしれないが、その眉は苦しげにひそめられている。小さく開いた口元は、引き攣ったような呼吸を繰り返していた。それに合わせ、肩が僅かに上下する。
首元、下ろされたジッパーから覗く白い肌に、いっそ暴力的な程目映く光る赤いタトゥ。
その蔦模様が喉元を汚染するように手を伸ばしたのが見えた気がして、
アルヴィスは思わず、
リクの肩を抱いた。
「……ぃ、…」
途端、リクが微かに漏らした声が聞こえ、ぎくりとする。
とっさにリクの肩から手を離そうとして、
「……て……」
小さな喘ぎ声と共に、
リクが、
胸元に頭を擦り寄せてきた。



「……え、」
予想外すぎる。
アルヴィスは凍り付いた。
リクはこちらの胸に顔を押し付け、再び擦り寄せる。
まるで無邪気に甘える子猫のような仕草に、アルヴィスはなぜか早まる動悸と背徳感に似た後ろめたさを感じて、
けれどその頭を無理矢理引き剥がす事も出来ず、
ただ、リクの肩を抱いたまま動きを止めた。
「…リク…?」
そっと名前を呼んでみるが、リクはそれ以上の動きを見せない。
だが、次に聞こえてきた言葉にアルヴィスは目を開いた。
「……、ナナシ……」
凍り付いたアルヴィスになどお構いなしに。
リクはひどく小さな、ともすれば聞き取れなくなってしまいそうな掠れた声で、途切れがちに言葉を紡いだ。
「……また、お前かよ…」
アルヴィスは、動けない。
静まり返った部屋には、他に何の音も響かない。
「…んと、お暇な、お人好し…」
押し付けられた顔は、表情など見える筈も無く。
アルヴィスは、ただ喉元をくすぐるその漆黒の髪を見つめる。
「……構うなよ、っつてんのに…」

ばかなやつ、

と吐き捨てるように落ちた言葉は、
だがその語句に比べてひどく柔らかな口調であって、
驚く程優しい響きすら保持していて、
何処か息の詰まる哀しさに、
満ちていた。



「…ごめん、俺、失敗したから…」
うわ言のように言葉を重ねる、少年。
否、うわ言だろう。
意識が朦朧としているこの目の前の少年は、自分を別の人間と思い込んで言葉を綴っているのだ。
…縋っている相手が、誰とも知らないで。
「…ファントムのトコ、行くんなら、今すぐレスターヴァにチェス突入させて、メルを全滅させるの、やめるって、言うから、さ…」
取引、
と、
彼は、
笑う。
口の端をつり上げて如何にも愉快そうに、自嘲するように。
「……ぃたい、」
始め、痛みを訴える言葉かと思った。

「…会いたいんだよ、お前らに」

息が、
止まる。

「…馬鹿野郎…」

知らず、
唇を噛み締めていた。
そっと、肩を抱いていた手を離し、

その背中に回す。

幼子のように抱き締められても、リクは何の動きも見せなかった。
「……大丈夫」
何が大丈夫なのか、自分が何をしようとしているかさえわからずに、アルヴィスはただリクの耳に吐息と言葉を吹き込んだ。
「……大丈夫だ」
大丈夫なんだ、
だから、
今は、
眠れ。


「……ありがと」


その言葉を贈る相手は違うだろうに、
彼は、そう呟やいたきり、
静かになった。



そっと、リクの後ろ髪をまさぐる。
繊細な硝子細工でも扱うような心持ちで、アルヴィスはリクを抱き締めた。
いくつかは知らないが、随分と細い躰だと思った。
その躰に数多の苦しみを抱え込んで、
彼は、ここにいる。
関係ない、
そう切り捨ててしまうのは容易いだろう。
だが何故か、どうしてか、
危うい程に薄い背中に回した手を離す事は出来なかった。
目を閉じる。
眼裏に、ファントムの尊大な微笑みが浮かんだ。
あの男は、何を企んでいるのだろう。
この少年をどうするつもりなのか。
不意に胸に湧き上がって来たのは、
言いようの無い、
憤怒とも、羨望とも付かない、
不可解な感情だった。
ただ奇妙な程に、不愉快で。
「…ファントム」
おそらく、今迄感じた事のない苛立ちの含まれた声音で、
アルヴィスは、リクの頭を強く押し付け、忠誠を誓うべき男の名前を小さく呟いた。





【感情の断片を抱えて万華鏡はただ回り続ける】





それが、
嫉妬という感情だとも知らずに。







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