遠い兆候
■ ■ ■
そうして、人馬の悲鳴が高く一声発せられると、河原の上では、圧し重なった人と馬と板片との塊が、沈黙したまま動かなかった。が、眼の大きな蠅は、今や完全に休まったその羽根に力を籠めて、ただひとり、悠々と青空の中を飛んでいった。
(『蠅』/横光利一)
形有る物は全て必ず終わるのだと、
そう信じることで救われてきた。
「…伊織、君は…」
「行け」
腕を伸ばす。指さす。
紫苑は顔をゆがめたが、ネズミは察したようだった。
「行くぞ、紫苑」
「でも伊織が、」
「紫苑」
名を呼ぶ。紫苑が振り返る。
湖面によく似た漆黒の瞳は、紫をはらんで美しく光った。
愚直な。ここまで来ても変わらないなんて。
喉が引き攣るような苦笑いをどう思ったのか、紫苑が目を開く。何か言いたげだ。
「サヨナラだ」
背後でNO.6が瓦解する音がしている。響く。
鈍重に鼓膜をつん裂くその轟音は、あの都市の悲鳴のようだった。
「伊織…」
ぐしゃりと顔をゆがめた紫苑が、最後にそう呼び背を向けた。
その前で、ネズミが口を引き結ぶのがわかった。
さよならだー紫苑。ネズミ。
俺はNO.6とともに生き、NO.6とともに死ぬー
その運命に、あるのだから。
「……!伊織!」
はっと目を開ける。まばたきをする。
目に飛び込んだのは、白い光だった。ランプ。
「紫苑…」
「珍しいな、伊織がすぐ起きないなんて」
そう言うと、紫苑は笑った。ランプが揺れる。
伊織はゆっくり起き上がると、あたりを見回した。ストーブ、書棚、散らばる本。
思い出す。昨夜、ネズミの元へ文字通りお邪魔して…。
「…紫苑、俺どのくらい寝てた」
「朝食の時間が終わるぐらいまでです、陛下」
うやうやしい物言いに首を巡らす。
すぐに相手は見つかった。もともと大して広い部屋ではない。
「ネズミ」
「お着替えはありませんが美味しいスープはございますよ。さあさあ早く起きてくださいませ」
「スープか。何のスープ?」
「俺の言葉は無視かよ」
勝手にやっておきながら、途端にネズミは不機嫌になる。眉を寄せたまま、「野菜の切れ端」と素っ気ない返事がかえってきた。
「ふうん。ごちそうになろうかな」
「君ならそう言うだろうと思ってた」
傍らでネズミとは真逆の笑みを浮かべ、紫苑がランプを床に置いた。光の届かない地下室の、唯一の明かり。
「それは俺が無遠慮だって言いたいのか?紫苑」
「えっ…いやそういうわけじゃないんだけど…ええっと」
困ったように笑う。適当にあしらえばいいのに、と伊織は立ち上がった。
そのままストーブまで歩く。
「しかしあんたが熟睡とは珍しいな。たしかに」
「そうか?…うわこれ全部食べていいの?」
「ふざけんな、夜の分まで取ってあるんだよ。…珍しいだろ、あんた気配に敏感なのに」
「そんな時もあるさ」
「伊織、どこか具合でも悪いのか?」
「具合?腹は死にそうなほど減ってるよ、紫苑」
鍋をのぞいた伊織の背後、次々と言葉が掛けられる。飲んでいい量をゆっくり推し量ることもできない。まったく。
『ーサヨナラだ』
夢だ。
内心で呟き、嫌になる。
最近よく見る夢だ。夢なんて、そもそも見ることがなかったのに。
「伊織?」
顔を上げる。
紫苑は不思議そうな顔で、ネズミは眉をひそめてこちらを見ていた。
目が合う。
「ああ」
反射で、口を開いていた。首を振る。
「なんでも」
NO.6の崩壊。混乱。
望んでいるのはそれだけか、それとも。
わからない。
「その時」が来るまでは、まだ。
ただ、
「うっわ紫苑、これすごく美味いな。いただき」
「馬鹿、それは俺が作ったんだよ」
「あ、伊織ほんとに全部食べる気か?!それはだめだ、」
「なんでだよ紫苑。ちゃんと美味しく頂いてやるからって」
ーただ、もう少し。
この馬鹿げた時間を大切にしていたい、そう思う。