黒に堕ちる | ナノ

迫り来る邂逅
バルコニーから見える景色は変わった。
地上がぐっと遠くなり、空が近づいたから。



「感傷的ではないか」
もう聞き慣れてしまった声に、ノアは振り返らずに答えた。
「誰が?」
「お前がだ」


今度は振り返る。意味がわからなかった。
薄暗い中、長い金の髪がぼんやりと浮かぶ。黒い服は完全に闇に沈んでいた。
「すまない、聞き間違えたようだ。誰がだって?」
「聞き間違えなどではない。私はお前が感傷的だと言ったのだ、ノア」
こちらを見据える金の双眸を見つめ返し、眉をひそめる。
「一体今のどういう状況から僕が感傷的だと言えるのか、悪いが説明してもらっても構わないか」
「バルコニーで月を物憂げに眺め、ため息をひとつ。これのどこが感傷的でないと言える?」
切り返しの早いこと。ノアはひそめていた眉を今度は釣り上げた。
「別に感傷に浸ってなんかないさ。月が綺麗だったからね、見てただけだ」
「…お前は「ノア!」
ペタの言葉をよく通る声がすっぱり遮った。
ノアはペタの肩越しに見えた顔に、目を細める。
「ファントム」
口を閉ざしたノアの代わりのように、ペタは首をひねると背後を確認する前にその名を呼んだ。
「どうしたのです、急に」
「2人が楽しそうに話してるのが見えたから」
全くもって楽しくなんぞしていない。ノアとしては驚愕の一言に尽きる。この男、やっぱり頭がイカれているに違いない。もしくは視覚が正常に機能していないか。
片目見えてるのか怪しいしな、無駄に前髪長いからな、などと考えに耽るノアに、ファントムはにこにこと話しかけた。
「月が綺麗、だなんてノアはさすがだね」
は?
突然の賞賛に相手を見上げる。
紫の瞳は、相変わらず楽しそうで。
何を言っているのだろう、こいつ。
「月が綺麗、っていうのは国によっては告白と同じ意味を持つんだよ。知らない?」


知るか。


「…そんな意味で言った訳じゃない」
仏頂面で答えたノアに、ファントムはそっと手を伸ばした。
びくり。
とっさに半身をひいたノアに、ファントムは眉尻を下げ苦笑する。
「なんでペタは良くて、僕はだめなのさ」
「別にペタもよくない」
ただ一緒にいた時間が長かっただけだ。
もちろん、心の底から不本意ではあったが。
「ファントム」
いつの間にかすぐ側にいたペタが、ノアの肩に手を置いた。
まるで対峙するかのように、ペタはファントムとノアの間に入り込んだ。そのまま肩を押し、ノアを後ろに追いやる。
「あまりノアで遊ばないで下さい」
「…ペタ」
ファントムは一瞬驚いたように目を見開いたが、すぐにいつもの微笑みを浮かべた。
「ペタ、珍しいね」
「何がでしょう?」
さらにぐいぐいとノアの肩を押すペタ。
「ペタ、やめろ。痛い」
思わずペタの手首をつかみ、文句を言う。その拍子にブラッドボディも一緒につかむ。しまった、痛い。
「ペタ、女の子に手荒な事しちゃダメだよ」
およそメルヘヴンを蹂躙してきたとは思えない司令塔のふざけた発言。というか、こんな奴に女の子扱いされるなんて虫唾が走る。
「…ノア、お前は部屋に戻れ」
「は、なんで」
なぜこの流れで。しかも突然。
「じゃあノア、ボクと一緒に部屋に戻ろうよ」
とても楽しそうに提案するNO.1ナイト。『一緒』を強調する意味はあるのか。そしてなぜお前と。
「貴方の手を煩わせるまででもありません。ノア、戻るぞ」
「煩わすって…僕は子供か」
本来なら30を越えるであろう年齢の司令塔と比べたら、そりゃあ子供かもしれないが。
反駁しかけ、こちらを見下ろすペタの目を見て止める。なぜかペタの目が無茶苦茶怖い。
「ファントム、明日からはウォーゲームが始まります。早くお戻りになられた方が」
そう言いながらノアの手首を引っ張り、ファントムの横を通り抜けるペタ。いや、だから痛いって。
ぐいぐいと引っ張られる。バルコニーはとっくに遠ざかり、薄暗い廊下へ導かれた。
「ノア」
背中から聞こえた声に、反射で振り返る。
「また、明日」
バルコニーにたたずんだまま、ファントムは柔和な微笑みを浮かべていた。
その上に月光が静かに降り注いでいる。
紫の目が、一瞬青く優しく見えた気がして、

「また、あした」

気が付かないうちに、微笑み返していた。




「ペタ、なぜ急にバルコニーから離れたがったんだ」
薄暗くだだっ広い廊下をずんずん歩く。ペタは相変わらずノアの手首を握ったまま。
「…明日からはウォーゲームだ。いくらお前は出ないといっても、早く寝るのが良いに決まっている」
こちらを見もせずに早口なペタ。なんだ、そのプログラムされたみたいな言葉。ペタらしくない。
「ウォーゲームか…」
6年前もあった。
あの時、全てが変わった。
変わってしまった。
おかしいな。
くすりと笑みを零すと、ペタが怪訝そうにこちらを振り返った。
「どうした」
「なんでも」
あの時、ファントムにタトゥを入れられ、ペタに捕らえられ。
あれほど、憎んでいたのに。
あれほど、恨んでいたのに。
今なぜ、自分の手首を握るペタの手に、ダガーを突き立てようと思わないのだろう。
ふと、さっきのファントムの瞳が浮かんだ。
優しい青。
よぎるのは、青い髪と青い双眸の少年。
正義感とメルヘヴンへの愛情に溢れた、あの少年。
彼は、今どうしているのだろう。
もしかすると明日からのウォーゲームに、彼は、



「出るのかな…」
珍しく気弱に呟かれたその言葉を、ペタは聞き逃しはしなかった。
だが、追求もしない。
少女の心に浮かぶ人物が誰なのかは、よくわかっているから。
「…敵が多いな」
そう呟き天を仰いだペタに、「ん?どうかしたか?」と無邪気に首をかしげる背後の少女。
「…五月蝿い」
「は、なんだ急に?」
喧嘩を売っているなら買うぞ?
下から睨み付けてくる大きな瞳。
鋭さに欠けるその目つきは、残念ながらどう見ても上目遣いにしか見えない。
「…タチの悪い天然が…」
「は?」
6年前、全身から殺気を放ちダガーを突き付けてきた少女は、ペタの言葉に可愛らしく小首をかしげ、疑問符を頭に浮かべてみせた。





『迫り来る邂逅』



「ペタ、いつまで手首を握っているつもりだ」
「ならこっちの方がいいか?」
「なっ…手を握るな、僕は子供じゃない!」



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