Another NO.6 | ナノ
魔の入り口

 そっと戸の節穴から覗いて見ると、お露は髪を結い上げ秋草色染の振袖に燃えるような緋の長襦袢、その綺麗なこと云うばかりもなく、きれいなほどなお怖く、これが幽霊かと思えば、萩原はこの世からなる灼熱地獄に落ちたる苦しみです。
(『牡丹燈籠』/三遊亭円朝)



 ラッチビル3F、潰れた新聞社。イヌカシが出した情報だ。
 辿り着いた階の廊下には強いアルコール臭が漂っていた。積み上げられた古紙の束、空き缶の山。
 相変わらずだな、と鼻を鳴らすとネズミが振り返った。眉をひそめられる。
「どうしたイオリ」
「気配」
 ごまかしにネズミは騙されてくれない。だからわざと内心と違う事を口にした。顎をしゃくる。
 光のこぼれるドアの前、手狭な廊下で足を止めたネズミが顔をしかめる。しかし紫苑は躊躇なくドアノブをつかんだ。バカやろ。
「待て紫苑」
「どうした?」
 手を押さえられ不思議そうな顔をする。ネズミはちらりとこちらに視線をやり、再びドアの方を向いた。
「イオリの言う通り……気配が、変だ」
「え?気配って」
 悲鳴、ガラスの粉砕音、甲高いわめき声。
 イオリは思わず顔をしかめ耳をふさいだ。本当に相変わらずだ、あの男。
「ヤバイな。イオリ、どうする?」
「爆弾でも投げてみれば」
「あいにくそんな物は持ってない」
「ならお得意のナイフでもいい。ドアの隙間から投げ込め、息の根止めれば騒音を元から絶てる」
「あいにく、暗殺技術も持ってないぜおれは」
「2人とも真面目に言ってるのか?」
 くだらないやり取りに素なのかわざとなのか紫苑が突っ込む。その細い眉がひそめられていた。
 再び悲鳴と怒声が響いた。目を開いた紫苑が飛び込もうとする。ネズミが制し、ドアを開けた。
 ためらわず光の中へ入り込む2人の背中に、一瞬迷い仕方なしに続く。
 中に入るのが誰なのか知っている以上、対面などしたくなかったが仕方がない。



「この、ろくでなし」
 叫んだ女の腕をネズミが難なく捻り上げる。
 紫苑が慌てて落ちたナイフに飛びつくのを見、イオリもまた女に近づいた。床に沈んだ女は眉も目を釣り上げ真っ赤な唇から叫び声を発する。
「ほっといてよ。こんなろくでなしのいい加減な女たらしなんて、死んじゃえばいいんだ」
 女の言葉にイオリは一瞬呆れた目を部屋の隅へ向けた。無様にしりもちをついた姿勢のまま、イオリの視線を受けた男が目を見開く。
 相変わらずのアル中め。
 内心で毒吐き、イオリはわあわあと泣き出す女の前に跪いた。
「泣かないで、いや泣いてもいい。好きなだけ泣いて……その方が楽になれる。泣いて……」
 同じように座り込むネズミの声に、そっと女を抱きしめる。なだめるように背中を撫でれば、相手の嗚咽がおさまっていくのがよくわかった。
「……暖かいね、あんた……」
「そう?ありがとう、お嬢さん」
 目元をぬぐってやれば、女が顔を上げる。イオリに抱きしめられたまま、ふふっと唇を緩めた。
「あんたみたいな子供に、お嬢さん扱いされるなんてね」
「いやだったかな」
「いや……あんた不思議ね、見た目は子供なのに……」
 なんていうのかしら、言いあぐねる女の唇がもぞりと動く。傍らのネズミの口角が密やかに釣り上げられた。
「色気ありすぎだってさ」
「そりゃ嬉しいね」
「お姉さん気を付けなよ。こいつは女も男も赤子も老人も惑わせる、魔性のニンゲンなんだから」
「ふふ、ネズミに言われたかないね」
 目の前のやり取りにつられたのか、女が声をあげて笑った。涙はすっかり消え失せている。
「あの……力河さんですか。むかしラッチビル新聞社にいた」
「「そうだよ」」
 紫苑がおずおずと尋ねる。答えた声は2つだった。
「この大嘘つきのろくでなしは、そういう名前さ。昔、新聞社の記者、今は酒代欲しさにどーしようもないエロ雑誌をつくってる、どーしようもない男だよ」
「ついでに言うと女好きで大ほら吹き、血までアルコールに浸かってるどーしようもない人間さ」
「そこまで言うかよ、イオリ」
 ふらふらと力河が立ち上がる。途端に女が食ってかかった。
「最初に結婚したいって言っといてこの仕打ちさ、それくらい言われたって当然だよ!」
「結婚できない事情ができたんだよ」
「なんだよ、その事情ってのは」
「それ、は……」
 女が力河に掴みかかる。紫苑が目を白黒させる。ネズミの顔にはやってられないと書いてあった。
 事情は大体つかめた。
 天を仰ぐ。薄汚れた白い壁。
 馬鹿らしいが、仕方ないか。
「お嬢さん、実はこいつら力河の子供なのさ」
「は?」
 指をさされたネズミが、すっとんきょうな声を上げる。だが即座に理解したのだろう、みるみるうちにその表情が険悪になった。
 ふざけんなよ。ネズミの殺意のこもった視線がそう言った。だが次の瞬間、彼は人懐っこい笑顔に変わる。



「まずは、礼を言っとく」
「礼より金が欲しいね」
 子持ちの中年なんてこっちから願い下げだよ。そう言い放ち女が去っていくと、力河が安堵に気を緩めた。にやりとした笑みに、イオリは冷たく言い放つ。ネズミがくっと笑い、顎を引いた。
「相変わらずだな、イオリ。久々に会いに来てくれたのにその態度か」
「相変わらずはあんただ。女と酒で頭までやられてる」
 ついでに言うと会いに来たわけじゃない、とイオリは親指を後ろへ向けた。
「2人を案内しただけだ」
「知り合いだったのか」
 紫苑が今更驚いた顔をする。イオリは肩をすくめた。
「そうだよ」
「言ってくれればよかったのに」
「余計な情報なんて言わないさ。金余分に払ってくれるなら別だけど」
「おれも知らなかったな。イオリ、あんたこのおっさんと知り合いだったのか」
 ばっさり切り捨てたイオリに、ネズミがくいっと指で力河をさした。
「知り合い?よしてくれネズミ。こんな奴、道端の石ころ並みの関係だ」
「相変わらず辛辣な奴だ」
 力河が深々とため息をつく。
「じゃあ、俺は帰るよ。仕事は果たした」
「待ってくれ、イオリ」
 きびすを返したところで、腕をぐいっとつかまれる。
「何」
 とっさに腕を振り払わなかったのは、相手に殺意が無かったからか、それとも他人に触れられるのは久しぶりだったからか。
 なんだ、と紫苑に目で問う。
「帰り道がわからない」
 困ったような笑みを浮かべる天然に、イオリは天を仰ぎ勘弁してくれ、とつぶやいた。


|4/15|bkm

[戻る