始まり
つまらぬ、くだらぬ、面白くない、情ない悲しい心細い中に、何時まで私は止められてゐるのかしら。
(『にごりえ』/樋口一葉)
ネズミがネコを連れてきた、というのがイヌカシの話だった。
「ちょっと待て、イヌカシ」
ぎしり、のけ反れば椅子がたわむ。イオリは天を仰ぎ、息を吐いた。
「なんだよ、イオリ」
「もう少しわかりやすく説明してくれない」
天井を見上げたまま両手を上げれば、視界の隅ににやっと笑うイヌカシが見えた。うざい。
「金を払ってくれるんならいいよ。根掘り葉掘り、詳細までこまかく教えてやる」
「だったら自分で調べる。あと、根掘り葉掘りの使い方が違う」
予想通りとはいえため息が出る。はあ、と息を吐き椅子に座り直したイオリを眺め、イヌカシがけけっと笑った。
「あのネズミがだぜ、変わった男を飼い始めたんだとよ」
「おとこ?」
「そう、男」
別に男なんて珍しいものじゃない。変わり者なんてこの西ブロックには山程いるし、そもそも変わり者の基準すら無い。
だから引っかかったのは、ネズミが、という点だった。
「へえ、あのネズミが、ね」
「気になるだろ?」
イヌカシが身を乗り出す。かつては上等だったのであろうぼろぼろのソファが、うめくような声をあげる。
「気になるな」
「なら金」
ほい、とイヌカシが手のひらを上にして差し出す。ひらひら。
「何してんの」
「俺会ったんだよ」
「は?」
「ネズミが連れてきたんだ。その男」
思わず茶褐色の目を見つめ返す。は?
「……ならあんたはその男をとっくに知ってて、さも早耳な情報かのように言ったってわけ」
「まあそうだ」
すました顔でイヌカシは答える。
ここ、西ブロックでは嘘も裏切りも騙しも殺しも関係無い。この程度の偽りならちゃちな物だ。
そうだった、な。
「なら、ほい」
「んあ?」
差し出されたままだったイヌカシの右手を強く引く。
左手でぐい、と顎を掴んで引きよせれば、大した体重の無い相手は、軽くよろめきこちらへ寄る。
茶色の目が瞬く。
軽く唇を重ねれば、その瞳孔が大きく見開かれた。
「なにすんだ、よ!」
途端、イヌカシが乱暴に突き飛ばした。これもやっぱり予想通りだったこちらは、よろめく事もなく肩をすくめる。
「俺に嘘つくなんて馬鹿なことするから」
「てめえ!」
背後で怒号が聞こえたが、イオリは無視して上着を引っ掛け扉を開けた。
元は荘厳な作りであったのだろうそれも、今は装飾が剥げあちこち傷んでいる。
「じゃあね、イヌカシ。またよろしく」
「なにがよろしくだ、まてイオリ!」
飛びかかろうとしたイヌカシの目の前で、ドアがぴしゃりと音を立て閉まった。
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