幻
『どうかまた来てください、』と自分のいう言葉も聞いたか聞かないか。かれの姿は夕闇のうちに消えてしまった、まぼろしのように。
(『まぼろし』/国木田独歩)
扉が開くと同時に吹いた。普通に吹き出してしまった、だがこれは不可抗力だ。
「……なんだあんたは。人の顔を見るなり」
「ちょっと鏡見て来いよ。2人そろって同じ顔してる、あんたたち」
「ぼくはネズミみたいな顔になった覚えはないけど」
紫苑が困惑した顔をする。本気で戸惑っているらしい。昨夜のような、張りつめた光はその目のどこにもなかった。
夜明け早々、出て行った彼には気が付いていた。それを音も無く追ったネズミにも。
イオリは微か笑った。殴り合いなんてお熱い展開はさすがに期待していなかったが、ネズミはどうやら紫苑を止める事に成功したらしい。
「いいから顔洗って来いって。スープ作ってやっといたからさ」
「ほんとか、イオリ。きみは良い人だな」
「紫苑、お前のその現金さは素直さとは違うからな」
「……で?」
「で?おれが聞き返したいんだけど」
「紫苑と殴り合い、か?」
隣を歩くネズミが横目で見てくる。心底嫌そうな目付きだった。
「紫苑が出てった時、あんた起きてただろう。なんでほっといた」
イオリは唇を舐める。横を子供がすり抜けていった。バラックの立ち並ぶこの路地は、狭く騒がしい。
「ファーストキスだったんだ」
「は?」
どこからともなく飛んできた石の欠片をひょいと避け、イオリは足を進める。斜め前がにわかにうるさくなった。怒号と叫びが響いたあたり、乱闘でも始まったのかもしれない。ここではもう珍しくもなんともない光景だ。
「……イオリ。ちょっと待て、今あんたなんて」
「あんな真摯かつ情熱的な別れの仕方は初めてだったからね。ちょっと顔が合わせづらくて」
ばたばたと横を何人かが走り抜けていく。力河のところへはまだ遠い。
全く、情報収集のためとはいえまたあの男の元へ行くことになろうとは。
「イオリ」
「へ」
不意にぐいっと腕を引かれた。虚を突かれて思わずたたらを踏む。
引っ張り込まれた細い抜け道で、腕を引っ張るネズミは妙な目付きでこちらを振り返った。
「ネズミ?どうした、力河のとこに行くには」
「こっちからでも行けるだろう」
「は?いやまあ」
そうだけど遠回りだろ。
忠告は最後まで言えなかった。ネズミに顎を掴まれたからだ。
通り1本隔てて、雑多な叫びと喧騒が聞こえてくる。
しばらくの間、開いた目が閉じられなかった。すぐ側で、灰色の瞳が瞬きもせず見つめている。呑み込まれそうだ。
「……な」
に、と言うのは間違っている気がした。信じられないという思いで、顎を放すネズミを見つめる。
「おれとしては、あんたの方が『なに』なんだけど。そんな顔してキスひとつしたことないとか、あんた一体なんなんだ」
「バカにしてんのか?」
「いや。ただ腹が立つ」
「はあ?」
思わず、眉をひそめた。何を言っているんだ、こいつ。
灰色の目は読めない。腹が立つと口にしたわりに、ネズミは無表情だった。
まるでさっきのキスなどなかったかのような態度。
「……紫苑は良くておれはだめなわけ」
「は?」
ますますわからない。ネズミを見る。
「あんたは」
何か言いかけ、ネズミがふいに口をつぐんだ。それから、ふいっと顔を背ける。
「もういい。行くぞ」
「……は?いや待てお前な」
「あんたのせいで余計な時間食っちまった。早くあのろくでもないおっさんとこ行かないと」
「待てってネズミ」
ネズミが急に早足になる。慌ててその後を追いかけた。
早い。彼にしては珍しく、急くような足取りだった。心の内が表れたような。
「ネズミ?」
返答はない。いつの間にか喧騒は遠のいていた。
唇を舐める。穏やかな温度の残る皮膚は、どこか他人事のようで現実味がない。
幻にも感じられた。空の雲を掴んだようなおぼつかなさ。
紫苑はよくておれはだめなわけ。
「……馬鹿」
唇をこする。手の甲で強く。
前を行く背を追い、足を早めた。
違う。そんなわけがない。いや駄目だ。それは。
「……あんたは、俺を殺す人間なんだから」
だから、駄目だ。他の感情はいらない。あってはならない。
目を上げる。
薄暗い路地裏をゆくネズミの背中が、やけに鮮やかだった。光などないのに目に焼き付く。
あんただから、駄目なんだ。
低く囁いた言葉は、音にならず密やかに消えた。
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