Another NO.6 | ナノ
口付け

 「なんだってけんかなんかなさるの、皆さん」とアッタレーアが申しました。
 「それで御自分たちの暮らしがよくなるとでもお思いですの? 角づきあいをしたり癇癪を起こしたりで、ただ御自分たちの不幸を増すだけの話じゃありませんか。まあ私のいうことを聞いてちょうだい。みなさんは、もっと高くもっと広く、ぐんぐんお伸びになるがいいわ。枝を伸ばして、あのわくやガラスを押しあげるんです。そうすればこの温室なんぞは木っぱみじんに消し飛んじまって、あたしたちは自由の天地へ出られるというものですわ。」
(『アッタレーア・プリンケプス』/ガルシン)



 ――ここはどこ。

 ……聞こえる。
 聞こえる。少女の声が、叫びが、耳を貫く。

 ――ここから私を出して。出して…

 泣き叫ぶ声。応える下衆な笑声。
 低い声の方はよく聞こえなかった。だが、自分はその声に覚えがあった。ゾッとする。

〈……君は美しい。沙布、僕は君に心を奪われてしまったんだよ。君はかつての……そう、僕の最高傑作であったあの子と同じくらい、美しく綺麗だ〉

 思わず、耳を押さえた。きつく鼓膜を塞ぐ。目をつむる。強く、強く。
 やめろ。そう言いたかったが、口は動かなかった。

〈君を、ここの女王にしてあげよう……そうだ、名前が必要だ。……エリウリアス、だなんてどうかな?〉

 どくん。
 耳を塞いでも、目を閉じても貫く声。胸元に響く。
 息が詰まった。
 エリウリアス。かの、女王の名前。
 この男は、あの存在までも……。

〈王と女王……そうだ、なんて素晴らしい。彼が帰ってきたあかつきには、君達2人を並べ讃えよう。この地の、最高の存在だと〉

「っ、――うるさい」
 ふざけるな。何がこの地の最高のだ。
 開いた口から、音にならない声を吐く。嫌悪。
 喉元から何かがせり上がる。どろりとした黒く熱い塊。吐きそうだ。

〈大丈夫、君は1人などにはならないよ。……このNO.6が在る限り、"彼"は必ず存在し続けるのだから〉

 ぎゅっと、さらにきつく目を閉じる。閉じたのに、眼裏に確かに見えた。
 そびえ立つ巨大な柱、幾重にも伸びるチューブと機材、そして……その中に、うずくまる少女。
 混乱のまま、両手で頭を抱え目を閉じる、彼女の姿は半透明。揺らめいている。
 存在感が希薄だ。ひどく、まるで今にも消えそうに。

 手を伸ばす。届かないとわかっていながら、それでも呼びかけずにはいられなかった。

 ――沙布。

 伸ばした指先とともに、名前を呼ぶ。
 その瞬間、うずくまっていた少女が、突然ぱっと顔を上げた。

 目が合う。

 涙に濡れた瞳が、一瞬驚いたように見開かれ、


 そこで、全てがプツンと途絶えた。





「……ん」
 目を開ける。ぼうっとしながら、ごしごしと目元をこすった。
 いつの間にか本格的に寝入ってしまっていたらしい。なんて夢見だと、イオリはほうけたような気分でゆっくり体を起こした。
 起こし、首を巡らせたところで、固まる。

「……おっと」

 うっかり小さく声を漏らして、口をつぐむ。
 部屋の真ん中、自分からやや離れたその位置で、

 紫苑が、ネズミと唇を重ねていた。


 これは、何か間違ったな。
 極力気配を消して、イオリはそっと動き出す。ゆっくり背を向けて、そろそろ扉へ足を進めた。
 一体何がどうなったのか、全くさっぱりわかりはしない。だが、とりあえず自分がいてはまずいだろう。それだけはわかる。
 イオリは扉に手をかけると、息を殺して外に出た。



 外は、満天の星空が広がっていた。

「……さむ」
 呟き、服の前をかき寄せる。白い吐息が、目の前を覆った。

 ――ここから出して、出して……。

 脳内で蘇る声に、もう一度深々と息を吐き出す。目を閉じた。寒さというより、空気の冷たさが身に染みる。

 夢などではない。それは、自分が1番よく知っていた。
 捕らわれた少女。矯正施設で実験体として消えるはずだったその存在。だが、彼女はあの男の目に止まってしまった。

 あの男――白衣の、あの人間だ。
 自分の生みの親であり、生きている限り憎み続ける対象。
 赦される事など、あってはならない人間。


「イオリ!」


 数瞬、息が止まった。何も考えず、ただ振り返る。
 誰かが、はあはあと肩で息をし、こちらへ走りよってくる。誰なのかはすぐにわかった。

「……紫苑」
「びっくり、した。何も言わずに、急に消えるから」

 途切れ途切れ、呼吸の合間に紫苑が言う。イオリは何も言えないまま、ただ黒い瞳を見つめた。まっすぐにこちらを見据える瞳。
 初めて会った時から変わらない。湖面のように澄み、そして奥底に何かを孕ますその瞳だ。

「……別に、俺がいつどこへ行こうと俺の勝手だろう?お前は俺の親か、紫苑」
「そう、だけど……君にも、言っておきたいことがあって」

 紫苑が、一歩こちらへ詰める。
 伸ばされた手を視覚が捉えていたのに、なぜか動けなかった。

「イオリ」

 紫が、張り詰めうねるその表面が、貫くように自分を見る。鼻先を、吐息が掠めた。
 背中に腕が回る。肩を引かれて体が傾いた。
 耳元で、小さな囁きが吹き込まれる。


 君に逢えて、よかった。



 唇を塞いだ紫苑の温度は、ひどく熱くて優しかった。


|14/15|bkm

[戻る