高く上った太陽がジリジリと俺を焼くように照りつける幕舎の中、俺は顎に手を当てて一人地図と睨み合っている。

騒がしい戦場とは裏腹に静かすぎる本陣の幕舎の中、暑さで回らない頭を必死に働かせこの絶体絶命の状況をどう打破するか…なんて事をひたすらに考えていた。




遅すぎた警告




高い崖の上まで追い詰めた敵軍。
逃げ道の無いこの崖の上で敵軍が袋の鼠になった所を、我が軍の奇襲部隊が叩く。
あちらの兵力と我が軍の兵力は比べ物にならないくらいに差があった訳で、この策はあっさり成功して敵の首を手土産に無事城へ帰れるはずだった。

そのはずだったのだが、敵軍を崖へ追い詰めた所で形勢逆転。
後ろから敵の援軍が我が軍目掛けて進軍してきたとの伝令が俺の居る本陣へと届いたのだ。


敵軍に援軍を要請出来る人物などおらず、後ろから迫る部隊は未だ不明で、俺も全くもって想像がついていない。
無論、事前に援軍を予想する事など不可能だった。


魏の軍師ともあろう俺がこの様では曹操殿の顔に泥を塗る事になる。
ましてや俺は曹操殿に命を握られている立場…。

「どうするべきか…。」

撤退はおろか、敵総大将の首を獲って帰らねば城に居る曹操殿に会わす顔がない。
「いや、むしろ首が無くなるな…。」
そんな事をぼんやりと考えながら、地図を睨む俺の目はいつも以上に目付きが悪いのだろう。

そう思いながら俺がありとあらゆる策を頭の中で巡らせていると、幕舎の入口が音をたてて勢いよく開かれた。
バサッと入口の布が音をたてると同時に鋭く響く女の声が俺の耳へと入る。


「賈ク殿!」
「おっと、これは名無し殿…。」

その音を聞き俺がゆっくりと振り返れば、そこには少し苛立った様子で武器を片手に佇む名無し殿が立っていた。
少々意外であり、そして嬉しい人物であったが、彼女が次に放った言葉で俺の少しだけ浮かれた気持ちが一気に沈下した。


「出陣させてくれ。」
武器を片手に持つ彼女はいつもより少し低い声でそう言うと右手に握った武器をギュッと強く握り締めた。

名無し殿の軍は奇襲をする予定だったが、こんな状況の為奇襲は中断し本陣にて待機している。
そんなじれったい状況に耐えかねたのか、名無し殿は開口一番に己の軍の出陣を要請してきたのだった。


「…、」
あまりにも唐突に放たれたその言葉に俺は口を開けて唖然としている。
そんな俺に近付いてくる名無し殿の目は鋭く光っていて、ここは本陣ではなく戦の前線ではないかと錯覚してしまいそうになった。

「賈ク殿!聞いてるんですか?」
「あ、いや。いきなり何を言い出すかと思えば…。」
「なんでもいいから今すぐ出陣させてくれ」

「それは無理な相談だ。」
「何故です!?今味方部隊は危険な状況なのでしょう?なら私が…」

「だからこそだ。この危険な状況のまま出陣したって無駄に兵力を減らすだけだ。」
「そんな事を言っている場合ではないだろう!」
「駄目だ。出陣はさせられない。」

俺が名無し殿の出陣を拒否すると、名無し殿は苛立ちながら舌打ちをして見せた。
そんな彼女を見ながら俺が溜め息を吐くと、名無し殿は右手に持った武器を力強く握り締め、俺に背を向け幕舎の入口へと向かう。


「名無し殿。どこへ行く」
「出陣する。」
俺は再び溜め息を吐きながら無茶を言い出す名無し殿の背中を追い、少し強めに肩に手をやれば名無し殿は苛立ちながら振り返り俺の目を見た。


「止めないでください!」
「はぁ…。名無し殿、あんたは少々自信過剰すぎる。」
「何を…!」

「あんたの軍だけでこの状況が良いように変わるか?そんな事は有り得ないだろう。戦がそんな単純なら軍師なんていらん」
俺はそんな明らかに機嫌の悪い名無し殿にゆっくりと言葉をかける。

自分でも彼女に言い放った言葉が嫌味ったらしいのは分かっているが、俺以上にその言葉に不快感を示す名無し殿は渋い顔をしながら肩に置かれた俺の手を荒々しく振り払った。


「俺は何の為にここに居る?力だけではどうにもならない状況を知恵で回避する為だ」
苛立ち、頭に血が上っている彼女をなんとか落ち着かせる為、先程とは打って変わって、子供をなだめようような静かな声で言葉を続けた。

「力であるあんたらが攻めた所でどうにもならない状況なんだ。知恵である俺が何とかしなくてはならない。名無し殿は少し落ち着いて本陣で待機していてくれ。」

そんな俺の言葉で冷静さを取り戻したのか、名無し殿は一度大きく息をしてから力の入った肩と拳から力を抜いて溜め息を吐いた。
伏せられた彼女の目線が、ゆっくりと俺を捕えたかと思えば、名無し殿は小さな声で溜め息交じりに“分かった”と囁く。

「はぁ…。分かってくれたようで何より。」
「賈ク殿、せめて此処に居させてくれないか。」
名無し殿を説得してホッと一息ついた俺にかけられた言葉は再び俺の思考を混乱させる言葉だった。


「はあ…、構わんが…何故?」
「いつ出るか分からん出陣命令の為、まだかまだかと武器片手に待機している兵たちと同じ場に居ては…早く出陣してしまいたくてたまらなくなる。」

理由と問うてみれば、生粋の武人気質な彼女ならではの理由で妙に納得してしまう。
理由はどうあれ名無し殿が側に居てくれるなんて願ってもない事だし、何も困る事はない。


俺は彼女の言葉を聞くなり直ぐに“どうぞご自由に”と返事をして再び地図と睨み合う為に幕舎の奥の机へと向かった。
俺の後を着いてくる名無し殿の気配が、何だかやけに気恥ずかしい。


幕舎の奥へと行けば名無し殿は椅子へと座り、頬杖を付きながら地図を見ている。
俺も彼女と同じように机の上に置かれた地図を立ったまま見下げていた。
そんな光景が数分続いたが、俺は策を練り出す事は出来なかった。
思い付いた策には全て何処かしら穴があり、決定的な策とは言えないだろう。


そんな頭の煮詰まった俺は策でも思い付いたように手を叩き、わざとらしい笑顔で名無し殿を見た。
「そうだ、名無し殿。俺が後ろで援護するから、正面から強行突破してくれないか?」


ふざけた口調、更には明らかな冗談だと分かる口ぶりで、名無し殿に向かいそう言い放った。
勿論本気で正面から強行突破して欲しい訳ではないし、ただ単に彼女をからかってみただけで特に意味の無い行動だ。

名無し殿が“ふざけないでください”なんて呆れた顔して言い返してくれるのを期待して、あくまで軽い冗談のつもりで言ったのだ。

そんな冗談で、煮詰まり重たくなった幕舎の空気が少しでも軽くなればいいと思った。


「私には軍略など分からないが、やはり今の状況ではそうするしかないんですね」

だが目の前の名無し殿は少し黙り込み考えた後に、俺の目を見てゆっくりそう言った。
“最初から私を出陣させてくれれば良いものを…”なんてぶつぶつ言いながら名無し殿は武器を持ち上げ立ち上がった。

「……、あははあ!名無し殿は面白いねぇ」
「面白い?一体何が…」
真剣な顔で俺を見る彼女の表情は少々混乱していた。

「冗談ですよ、冗談。正面から強行突破なんて、そんな事したら生きては帰れないだろう。」
「だけど他に策は…」

「安全な方法を何とか考えますから。これでも魏の軍師なんでね。」
そんな事を口で言いつつ、心の何処かではもうこの戦は無理だ、終わったなんて薄々悟っていた。
それでも軽々しい俺の唇は名無し殿を安心させようと格好つけた口ぶりで言葉を垂れ流す。


「そうか…。そうだな。では、賈ク殿を信じるとしよう。」
そんな俺の薄っぺらい言葉に名無し殿は小さく微笑み、そう言って俺を見た。

本心でもない言葉をまるで真実のように話して見せる俺なんかを…、
つい先日魏に降ったばかりの俺なんかの目を見て“信じる”と。


この俺を信用する者など魏に居ないだろうと、そう思っていた。
ましてや魏に忠誠を誓う彼女なんか特に…。


「…あんたは分かってないな、俺がどんな男なのかを。」
「いきなり何ですか。」

「軽々しく“信じる”なんて言わないで欲しいね」
「賈ク殿…、何を。」


「俺はつい先日まで敵将だった。曹操殿の命を狙い、典韋殿の命を奪ったんだ。」
「…。」

「それに、俺の言動を見てみろ。信用に足る男に見えるか?」
軽々しい言葉に、胡散臭い行動。
“軍師だから”“本心を悟られぬ為に”なんて理由以前に俺はそういう人間だ。
この俺は結局そんな男なのだ。


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