「何を言う、そんな事は関係ない。確かに典韋殿の事は正直吹っ切れた訳じゃない…。でも貴方は味方だ。」
名無し殿はそう言いながら、その汚れない綺麗な目で真っ直ぐと俺を見ていた。


「貴方がどんな男だろうと、私はただ味方を信じ戦うだけ。その味方がたまたま賈ク殿だっただけの事。」
その綺麗な目が、綺麗な信念が俺には眩しくて眩しくてたまらなかった。


「だとしても、安易に信じてるなんて言って欲しくないね」
苦しくなると同時に何かを期待してしまった。

「賈ク殿は魏の軍師で、私は魏の将。何故信じては…」

彼女は不思議そうにそう言いながら首を傾げた。
それはそれは心底、不思議そうに。


その澄んだ瞳は未だ俺を真っ直ぐと見ていて、その視線が刺さるように痛く感じた。

何故ならその目は力強く、確かに武将の目で女の目などしていないからだ。
俺を見る彼女の目は、女の目などしていない。
そこに居るのは名無し殿ではなく、名無し将軍。


「…分かった分かった、あんたと俺の考えてる事はだいぶ違うようだ。悪かった、話を戻そう。」
「賈ク殿…?」
「で、策なんだが…」
俺はいつもの調子で話を強引に戻すと、彼女は訳が分からないと言わんばかりに俺を見て再び首を傾げて見せた。


俺は馬鹿か、彼女が俺などを一人の人間として、一人の男として信じるなんて事が有るはずがないだろう。
そう自分に言い聞かせるように頭の中で何度も同じ台詞を呟いた。

少し、期待してしまったのだ。
彼女は俺という人間を、俺という男を信じて戦場に命を晒しているのではないか、と。

だが名無し殿が信じているのは魏に命を預けた、曹操殿に命を握られた軍師としての俺であって決して“俺という人間”ではないのだ。


最初から分かっていたが、彼女の言葉に目がくらんでしまった。



「この状況を打破するには、背後の敵をどうにかしないと駄目だ。前にも後ろにも敵が…」
俺は無理矢理戻した話の続きをポツリポツリと言葉にしていると、その言葉の途中で名無し殿が咄嗟に幕舎の入り口を振り返った。

その彼女からは、強く握られた武器が軋む音とジリッと土を踏みしめる音が聞こえる。
俺は嫌な予感を頭に巡らせ、額から流れる冷や汗を感じながら溜め息を吐いた。


「賈ク殿、少々遅かったようだ…。」
名無し殿の凛とした声が幕舎に響くと、俺はそれを合図に地図から目を離しゆっくりと後ろを振り返る。

覚悟して振り返った瞬間、案の定そこには敵軍の兵士が何人か立っていた。
大した数ではないうえに名も知れぬ言わば雑魚兵ばかりだったが、本陣まで押し入られるという事は近くに将軍級の人物が居るという事だろう。


「“前にも後ろにも敵が居る。包囲されたら終わりだ。”そう言おうとしたんだが…」
「賈ク殿、その警告、遅すぎる。」

「そう、だな。最早策なんて使えん。」
「どうすれば…。」
名無し殿は不安そうに俺を見詰めながら、己の武に頼る様に自身の武器を握っている。
そんな滅多に見ない名無し殿の不安そうな瞳を見て、ああ今は俺が守らねば…なんて柄にもない事を思って居た。

それと同時に“軍師が将軍を守るなんて偉そうだな”なんてやけに現実味溢れる冷静な事も考えていた。


「そのうち敵兵が一気に此処へ攻めてくるだろうな。名無し殿、ここは危険だ、逃げるんなら早く逃げた方がいい。」


俺はそう言いながら机の下に置いてあった自身の得物をゆっくり手繰り寄せ、握り締めると慎重に前へと足を進める。
同じように名無し殿も幕舎の入口へ向かい、二人で隙を突いて敵兵の中を突破して幕舎の中から脱出した。
雑魚兵しか居なかったのが不幸中の幸いだ。

本陣の中は案の定慌ただしくなっており、もう皆城へと逃げ出し始めている。
前線で戦っていた部隊も撤退を始めたらしく、伝令が本陣を駆け回りながらそれを皆に伝えていた。


「名無し殿、早く逃げよう。本陣も直ぐに危うくなるだろう」
「賈ク殿…」
名無し殿の手を引き、まだ不安そうに戦場を見詰める彼女を少々強引に本陣から連れ出した。
途中、誰のものとも分からぬ馬を見付け、二人で乗り必死に城を目指し戦場を逃げ出す。

だが城までは遠く、早くも日が落ち始めた為、俺たちは小さな森に身を隠し翌日に再び城を目指す事にした。
森は戦場から距離もあり、暗い中城を目指すよりは森で一晩身を隠した方が安全だ。


暗い森の中、俺たちは逃亡の際に負った軽い傷の応急処置をしながら身を潜めている。
「皆は…無事だろうか…。」
名無し殿は拳を握り締めそう言いながら眉間に皺を寄せ、そう小さく呟いた。

武将として、軍師としてお互いにこの状態がやけに惨めだった…。
この惨めな状況が無償に虚しく苦しい。
そして戦場から離れ落ち着いた今、今回の自分の采配を思い返すと更に虚しくなった。

「名無し殿、すまなかった。」
「賈ク殿…。」
「俺が敵の援軍を予想していれば回避できた事態だ。全て俺の責任だ。すまない」
俺がホロリと溢したこの言葉は本心で、それが彼女にも伝わったのか名無し殿は心配そうに俺を見詰めていた。

「俺のせいで、こんな事に…」
「そんな事…」

俺の言葉を聞いた名無し殿は、力を入れていた自身の拳から力を抜き、そしてそっと俺の手を握る。
その白く暖かい手は確かに女の手をしていて、骨っぽい俺の手とは比べ物にならんくらいに随分と柔らかかった。

「そんな…、そんな事言わないでくれ…。誰も賈ク殿のせいだなんて思って居ない。勿論私も…。」
そして寂しそうに俺を見る彼女の目もまた、女の目をしていた。
貴方は何も悪くない、なんて言いたげな瞳で俺を見る彼女の目線が妙に心地良い。


「名無し殿…。」
惨めだが何のしがらみもない状況に、俺を見詰める名無し殿の瞳。
この空間が心地良いと同時に、俺の感情は抑えきる事が出来そうになかった。


森の中に座り込む名無し殿の肩を強く掴んでその目を見詰め返してみれば、彼女は小さく身を震わせて頬を赤くする。
顔を近づけてみれば名無し殿の肩に力が入った。
「ちょ…、賈ク殿…。」

空いている手で彼女の柔らかい髪をゆっくり撫でて、指先で髪を絡ませると名無し殿はくすぐったそうに身を捩じらせた。
最早俺には自分を抑える気など毛頭無い。
もうどうなっても構わないとすら思った。

「ここは危険だ、逃げるんなら早く逃げた方がいい。」
聞き覚えのある台詞を小さく囁いた俺の口元はきっと厭らしい笑みを浮かべているのだろう。
そんな俺の息が彼女の唇にかかった時には、既に何もかもが遅かった。


「か、賈ク殿ッ…。」
「名無し…。」

俺が名前を呼ぶと彼女は肩の力をゆっくり抜いて少し不安そうに俺を見詰める。
そんな愛らしい彼女の全てをこの俺が残らず何もかも奪い去ってしまいたい。
そう思いながら俺はゆっくりと彼女に顔を近づけ、そしてゆっくりとじれったく唇を奪って見せた。

「名無し殿…もう、逃げられない。」

逃がす気なんてない。






遅すぎた警告

逃げられやしない。
このまま彼女に溺れるという運命から、俺は逃げられる気などしなかった。





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