三千世界の烏が飛んだ


「あっ、降って来たね」
「えー本当だー。酷くならないうちに帰ろ〜!」

 女子高生らしいはしゃぐような話し声と、パタパタと小走りする足音が廊下に響き渡る。少し遅れて学年主任が声を上げて注意しているのが聞こえてくる。自分の席から窓の外を見るとあの子たちの言う通り雨が降り始めていた。薄暗くて分厚い曇を見るに、これからどんどん雨は激しさを増していくだろう。傘、持ってきてたっけな〜……。鞄に折り畳み傘を入れていたような、なかったような。私も大降りにならないうちに本部へ行くか、帰る方がいいのだと分かっているけれど、どうにも動く気になれずにぼんやりと空を見つめる。どのくらいの時間そうしていただろうか。雨はすっかり勢いを増し、土砂降りと呼んでいいくらいだ。背後から私を呼ぶ声がして、振り向くと澄晴がいた。

「何でこんな時間まで残ってるの? 傘でも忘れた?」
「自分だってまだいるじゃん。傘はあるよ……多分」
「俺は先生に捕まってたんだよ」

 「てか多分って何?」ないなら俺が入れてあげる、とケラケラと笑いながら澄晴が言う。澄晴には悪いけど、まだ動き出す気にはなれなくて生返事を返してしまう。

「何? 帰んないの」
「帰るよ、帰るけど〜……雨がさぁ……」

 机に突っ伏して、腕に顔をうずめる。澄晴は気にならないのだろうか。あの日もこんな酷い雨の日だった。まだ一ヶ月も経っていない。どうしても、あの困ったような笑い顔が頭から離れない。

「……あぁ。名前が気に病むことじゃないでしょ。誰にもどうにか出来ることじゃなかったよ、あれは」
「分かんないじゃん。私がもっと未来の相談に乗ったりしてれば、未来はまだボーダーにいて二宮隊はA級のままだったかもしれないもん」

 私は何にも知らなかった。未来がどれだけ近界に行きたがっていたか。どれほど思い悩んでいたか。私がそれを知るのは、全部終わった後のことだった。
無知は罪だと言うけれど、本当にその通りだ。





「名字隊長、至急司令室まで来てください。繰り返します名字隊長……」

 この頃の私は自分の隊を持っていて(と言っても隊員は私とオペちゃんしか居ないんだけど)隊室でオペちゃんとのんびり話ていたところだった。

「ん? 私?」
「名字隊長が呼び出しなんて珍しいですね」
「怒られるようなことしてないんだけどな〜。ちょっと行ってくるね」
「はい、行ってらっしゃい」

 緊急の連絡事項等もあったりするし、ボーダー内での呼び出し自体は珍しいことじゃない。この間は太刀川さんが忍田さんに呼び出されていたし。何回か太刀川さんが無視するものだから、最終的には沢村さんが引きずって連れて行っていた。あの嫌がり方は多分成績関係だろうな。
 仮にも進学校に通っている身だし成績だって悪くない。防衛任務で授業を抜けることが多いため、追加課題こそ出るけどちゃんと提出している。素行不良で呼び出される覚えはないので、迅さんの予知で何かあったのかなぁ、なんて思いながら司令室の扉をノックした。

「名字です」

 扉の向こうから城戸さんの「入りなさい」と言う声が聞こえたので「失礼します」と一声かけて入室する。部屋には本部の上層部が勢揃いしていて重々しい雰囲気が漂っていた。いるのは城戸さんと忍田さんくらいだと思っていたので、唐沢さんたちまでいることに驚いた。思わず突っ立ったままでいると忍田さんが深刻そうに口を開いた。


「先日、二宮隊の鳩原未来隊員が民間人にトリガーを横流しし、その後行方を晦ませている。我々は既に近界へ渡ったと見ているが……。名字は鳩原と仲が良かったと聞いている。少し話を聞かせてもらえないか」
「は……? 何言ってるんですか忍田さん。未来にそんなこと出来るわけ、」
「出来る出来ないではなくて実際やっているのだよ、名字くん」

 根付さんがうんざりした様に言う。その態度が、未来はもう私たちの世界には居ないのだと実感させる。
 言葉が出てこなかった。未来とはついこの間、本部で顔を合わせたばかりだ。澄晴の誕生日が近かったから二宮隊の皆があげるものとプレゼントが被らないようにって話して、お祝いのご飯が焼肉だって言うからニノってばそればっかりでよねって何でもないような会話をしたところなんだよ。

「特に変わったことはなかったと思います。それに、未来……鳩原隊員がトリガーの横流しなんて……。正直に言って、そんな度胸がある人間じゃありません」
「我々も驚いているよ。勤務態度は至って真面目、性格も気が大きい方ではないと記憶している。……故に第三者が鳩原を唆した可能性がある」
「第三者……? あぁ……私、疑われてるって事ですか」
「名字を疑っているわけではない。初めに言っただろう、話を聞かせてくれと。最近の鳩原の行動に不審な点や、疑わしい人間と会っているような素振りはなかっただろうか?」
「ごめんなさい、分からないです。私にはいつもと同じ様子にしか見えなくて」

 記憶の中の未来が、へにゃりと困ったように笑う。見慣れた顔だ。ねえ、今度一緒に新作ケーキ食べに行こうって約束したじゃん。まだ行ってないよ。嘘つき、嘘つき、嘘つき!次に顔を合わせたら針千本飲ませてやるわ。指切りなんてしなかったけど、それくらいは許されると思うの。そうでしょ、未来。


 結構私は大した追求もお咎めも受けることはなく、この件について他言無用だけを言い渡されて司令室から帰された。
 人間、過度なストレスを受けると防衛本能でその時の記憶を忘れちゃうらしい。あの後もいくつか質問をされたが、何と返したのか覚えていない。ただ、私の答えが上層部の期待外れだったことだけは確かだ。オペちゃん曰く隊室に戻ってきた私はとても酷い顔をしていたらしい。ここが崖なら飛び降りてそうな表情だったとかなんとか。流石にそこまで思い詰めた覚えはないから、オペちゃんが話を盛っていると私は思っている。
 戻ってからオペちゃんに甘やかしという名の介護を受けていた私だが、しばらくして誰かが訪ねてきた。

「犬飼さん。名字隊長にご用事ですか? ごめんなさい、今名字隊長ちょっと気落ちしてて」
「大丈夫だから、いいよオペちゃん。ありがと」
「名前と二人で話したい事があるから、悪いけどちょっと外してくれる?」
「はぁい。あんまり隊長に無理させないであげて下さいね」

 心配性で優しいオペちゃんだ。年下だった筈なんだけど私よりずっと頼もしい。私はいい隊員に恵まれた。

「それで、今日はどうしたの」
「鳩原ちゃんのこと聞いたんでしょ」

 そうよね。やっぱりその話だよね。

「うん、ついさっきね。二宮隊……どうなるの?」
「別に解散を言い渡されてしてないから安心してよ。まぁ鬼怒田さんにこっ酷く怒られはしたけどね〜。大丈夫だよ、それだけ」
「トリガーの横流しなんてヤバい規律違反犯して、それだけで済むわけないじゃん」
「あー……まぁ、どうせ直ぐバレちゃうか。B級降格だってさ。後、しばらくランク戦参加禁止」

 想定していたより、重い処分だ。連帯責任や関与を疑われての降格は予想していたけど、ランク戦まで禁止か。事の重大さを考えれば仕方がないとも言えるけれど。後にも先にも、こんな事はこれだけだろうから。
 重たい空気を背負う私とは裏腹に、澄晴はこの件を悲観してはいないみたいだった。

「二宮隊のことは名前が思い悩むことじゃないって。俺たちはまたA級を目指すだけだしね〜」
「うん」
「だからさあんまり泣かないでよ」

 泣いてないよ。そりゃあ悲しかったけどさ。友達だったもん。未来と一番仲良しなのは私だって勝手に思ってたのに、未来の悩み一つ聞いてなかったこととかさぁ。なんだよ、私の一方的な片思いかよ。バーカ。
 色々思うとこはあるけどさ、泣いてなんかないのよ。ええ、本当に。

「意地っ張りめ」

 澄晴の指が私の目元を拭う。その指先が濡れていたように見えたのはきっと私の気の所為だろう。

「今すぐには無理だけど、二宮隊は遠征に行くよ。鳩原ちゃんは俺たちが連れ帰ってくるからさぁ、それまで待っててよ」
「連れ戻す……?」
「そ。だから……」
「その手があるじゃん!」
「うわっ」

 ガタリ。勢いよく立ち上がった私に澄晴が驚いた。
 天啓、目からウロコ、なんで思いつかなかったんだろう!そうだよ!私が首根っこ捕まえて連れて帰ればいいんだ。そうと決まれば落ち込んでる場合じゃないや。遠征隊に選ばれるように訓練しないと。あぁ、でも名字隊の戦闘員は私だけだから他の隊に比べて随分不利になるだろうな。でも今から新しく隊員を入れるのもなぁ……。新隊員が加入して直ぐは、隊が不安定になりがちだし。そもそも簡単には見つからないだろうし。うーん……。

「あの……名前さん……?」
「……」
「…………?」
「未来の後任ってもう決まってたりする?」
「いや、そもそも二宮さんは新しく狙撃手入れる気は無いと思うよ」
「ふーん、なるほど……。ニノって今隊室にいるよね」
「いる筈だけど……」
「分かった! ありがと!」

 あ、でもニノより先にオペちゃんに説明しなきゃかな。何せ自分の隊がなくなっちゃう訳だし。私の勝手で解散しちゃうんだから、ちゃんと次の入隊先探してあげなくちゃだな。オペちゃんは優秀だし、引く手数多だとは思うけど。
 どっちかと言うとニノの方が苦戦しそう。頑固だしなぁ〜。

「澄晴、私二宮隊に入るから。ニノの説得手伝ってね!」
「え」



 拝啓 近界のどこかにいる友人へ。
 近界はどんなところですか。食べ物は美味しいですか。夜はちゃんと眠れていますか。神経を張り詰めているのが用意に想像できるので、とても心配しています。意外と頑固な君のことだから目的を果たすまで帰ってくる気はないんでしょうね。ううん、もしかしたら始めから帰る気なんてなかったりするのかな?
 私は二宮隊に加入することに決めました。君の後釜です。ニノはまだ首を縦に振ってはくれませんが、そのうち折れてくれると思います。そうなってくれないと困るので、私の入隊を意地でも認めて貰います。取り敢えず外堀から埋めていくのがいいと思うんだけど、未来はどう思う?ひゃみちゃんは協力してくれそうだけど、辻ちゃんが難しいかな。何せまだまともに会話が出来ていないのです。
 加入後は、遠征隊を目指そうと思います。勿論、君を連れ戻すためです。帰ってきてくれないなら、こちらから行けばいいだけのことでした。君を連れて帰るまで二宮隊狙撃手のポジションは私が守っておきます。だからどうか、私たちがそちらに行くまで安心して首を洗って待っていてください。
 敬具 君の一番の友人より。

 追伸 約束を破ったことはとっても怒っています。戻ってきたら、財布を空にするまでケーキを奢ってもらいますので、覚えておいてね。
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