2
少女がそこに来た時すでにその死骸が出来上がっていた。それは猫の死骸だった。首輪がはめられていないところを見ると野良猫の死骸だろう。足があり得ない方向に曲がり、背に大きな刃のきり傷が出来ている。
それを見下ろして眉を寄せながら、少女の目は横にいる存在を見た。
そこには少年がいた。
またじっと死骸を見下ろしている。
その少年は公園の中にいた。
公園のベンチに座り、静かに本を読んでいた。公園は住宅街から多少離れたところにあり、夕方頃のこの時間には少年以外の人は居らなかった。
「やあ、こんにちはしゃい」
そんな少年に掛けられた声は昨日の少女のものだった。独特な語尾で顔を上げなくとも分かった。
「昨日はあの後、早く帰ったしゃいか」
聞いてくる少女に少年は何も言わない。目線をずっと本に向けている。
「人の話は聞くもんしゃいよ」
唇を尖らした少女の拗ねたような言葉にも帰ってくるものはない。少女はため息を吐いた。その後、少年から視線を外し、辺りを見渡す。
「変わったところは特になし……と」
少年に聞こえないよう小声で呟いた少女を、目線だけで少年が見ていた。
「じゃあ、しゃいね。また縁があれば会いましょうしゃい」
少女がそう言って手を振るのを、少年はもう見ていない。
去っていた少女に少年はただ本を見ている。
くすくすと笑い声が聞こえた。
「変な奴もいるもんだね」
笑い声と共に少年が座るベンチの後ろから男があらわれている。少年はそれを見ない。
「迷惑きわまりない奴だと思わないかい?」
問うてくる男に少年は目線をあげない。
「あんたが俺にとっては一番迷惑きわまりないよ」
「あれ? まあそうかな」
「分かっているのならしばらく俺に話し掛けないで。日が落ちないうちに読み終わらせたいから」
「ああ、何だそっちのこと」
「他に何があるって言うの」
「まあ、色々かな」
本から視線をあげずに少年は会話をする。その様子に男が笑っていた。
「ああ、楽しいね」
「何がか分からないけど、まあよかったんじゃない」
「うっふふ。そうだね」
「ねぇ、重い。のし掛からないでくれる」
「駄目」
「駄目に決まっている」
男は少年に体重をかけながらくすくすと笑う。
男の目がゆっくりと少年からはなされた。少年が男を見る。
「あれ……」
男の言葉に少年が視線を男の見ている方向に寄越す。そこには一匹の猫がいた。
「猫、がどうかしたの」
「いや……。なんにも、」
男の声は何処か普段と違っていた。それに不思議に思う少年の目を男は覆い隠した。
「なにするの」
「見ちゃ駄目」
「何を」
「猫を」
「はぁ?」
「僕のものだから」
男の子供の様な声に少年はため息を吐いた。
「見ないからこの手をどけろ。本が読めない」
「どうしようかな」
男が楽しそうに笑う。不意にその空気が変わった。
「どうした?」
「遊びはここまでみたいだ」
どういう事だと少年が聞こうとした時、少年の目から男の手が外されていた。背中に掛かっていた男の重みもなくなる。
男はいなくなっていた。
猫の姿が見える。そこから視線を外そうとした時それは起きた。
突然風が吹いたように思えた。
そして、それが止んだ瞬間には猫の背中から血が溢れていた。猫は一瞬何が起きたの分からないように大きな目をきょとんとさせる。そのすぐ後、その瞳は苦痛を表し崩れ落ちていく。
その動きにもう一度風が吹いた。
何かが折れる音が響く。
猫の叫びにも似た鳴き声が響いた。
猫は地にふしぴくぴくと僅かながらに痙攣した後、ばったりと息絶える。
その光景を少年はじっと見ていた。
突然吹いた風の中には黒い鬼がいた。
3
道を歩いていた少女は不意にその足を止めた。歩いてきた方角を見つめると走り出す。
少女が訪れたのは、公園だった。
先ほど訪れたばかりの公園では、ベンチに座っていた少年が立ち上がりじっと地面を見ている。無造作にベンチのところで投げ出された鞄。少女の背中に冷たい汗が流れ落ちた。
「なに、してるんしゃい」
少年は振り向かない。
少年の足下に血が流れているのが見えた。近付いていくと少年に隠れていた猫の死骸が見える。少女が顔を歪めた。
少年は何も言わずただ見ている。
じっと少年と猫の死骸を見ながら、少女はそれを片づける作業に入る。写真を撮り、ビニール袋に死骸を入れていく。その一連の動きを見ていた少年がぽつりと呟いた。
「鬼が……」
「え?」
振り向いた時、少年の顔は無表情だった。ただ鬼がと呟いた。
4
「鬼、ですか」
「鬼しゃいよ」
部屋の中、青年が興味深そうに呟くのを、少女は疲れたように見ていた。
「もしそれが犯人について言われているとしたら、もうそろそろこの事件も終わりを向かえるかもしれませんね」
「そう、しゃいね……」
「鬼は、見た人を殺すと言いますから」
青年の言葉に少女はため息を吐いた。
「囮みたいになるしゃいね……」
「まあ、それも仕方ないことでしょう」
「そうしゃいね」
………
少年は公園にいた。こないだと同じ公園だ。少年はそこで本を読んでいる。
本を読んでいる少年は不意にその視線をあげた。その眼が細められる。
鞄の中に本を無造作に詰め込み、横へと飛ぶ。少年がいなくなったベンチが鋭く切り裂かれた。
少年がベンチだった物を見た。その上に鬼の姿がある。鬼が憎らしそうに笑う。
「やはり、見えてたな」
鬼が言葉にする。
その鬼を少年は見た事があった。それもつい昨日のこと……。
鬼を睨み付け、少年は距離を保つ。鬼が距離を詰めようとかけてくるのに、横に避ける。鬼の早さは異常だった。風のように一瞬にして少年がいた場所を切り裂いている。
鬼を見つめながら少年が唇か噛みしめた。すっと腰を落とす少年は、されど、その動きを途中で止めた。地面を蹴ろうと足に込めた力がなくなる。
鬼が襲ってくるのにほんの僅かだけ上体を後ろに反らした。
鬼の鋭い爪が少年の首元を狙うのが、すんでの所で阻まれる。
少年の首と鬼の爪の間に冷たい鉄の塊、……銃が入り込んでいた。少年と鬼の眼が突然の乱入者を見る。乱入者は少女だった。
「お前は……」
鬼が震える。
「人間とあやかしの秩序を保つため、ちょっとお縄について貰うしゃいよ」
少女が銃口を鬼に向ける。逃げようとした鬼だが僅かに遅かった。引き金を引いた少女。
鬼が地面に倒れ伏した。
「安心しんしゃい。ただの麻酔弾しゃいから」
少女を少年が見る。見られていることに気付いた少女が気まずそうに目線を逸らす。
「その大丈夫だったしゃいか?」
少年は何も言わない。
「その、あんたに一つ謝らないと、いけないことがあるんしゃいけど、そのね、実はちょっとあんたを囮にさせて貰ったしゃい」
なにも言わない少年は、でも今までと違い少女に視線を合わし睨んできた。
「その、昨日鬼って呟いたでしょ。鬼は見られることを嫌うから、見られたら見た者を殺しに来るかなって思ったんしゃいよ」
「……」
少女の説明に一度考え込むように目を伏せた少年がまた睨む。
「それにしては、目の前で昨日殺していたけど」
声が少年から漏れた。
「それは……、多分見られるとは思ってなかったんしゃいよ。基本は普通の人には見えないはずしゃいから。時たま、あなたみたいに見える人もいるしゃいけど……。だからね」
「……そう」
「で、あの、もう一つ言わなきゃいかん事があるんしゃいけど」
納得した様子の少年に少女が困ったように笑う。
「あなたはあんまり困惑してる様子もないしゃいし、元から見えてたんだろうとは思うんしゃいけどね。一応仕事上、見られたら記憶を消せっていうのが、うちの会社での鉄則になっていまして……」
「止めときなよ」
少女が一番大事なところを言う前に少年が止めた。
「え?」
「どうせ意味ないから……」
ポツリと落とされた言葉。少女は言葉の意味を考える。だが理解できない。
「どういうことしゃい」
「さあ?」
首を傾げるその仕草の白々しいこと。何かあると少女に告げる。静かに少年を見据え始める瞳に、少年は何処か別のところを見た。歩き出し、自分の鞄を拾う。
「あんた、名前は」
少女が問うのに一度だけ振り返り、そして、
「尾神蓮」
少年は歩いていく。
「そう。私は中川理矢。縁があったら会いましょう。なんだか会えそうな気がするしゃいよ」
少年は振り向かなかった。少女がそれを見送る。
これが始まり。
公園から出て少女から見えなくなったところで少年の元に男が突然現れていた。
「駄目じゃん。名前教えたら。契約違反だよ」
くすくすと笑う男に少年、蓮は何も言わなかった。
「君は僕の物なんだから」
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