桜の花びら三八枚
「八重ちゃん!ちょいとこっちへ来ておくれ!」
「……どうかしましたか?」
「いやぁ、肝心な餡を切らしちまいそうなんだ。申し訳ないけど小豆を買ってきてくれないかい?」
「分かりました。いつもの所でよろしいですか?」
「うん、問題ないよ。悪いねえ……本当、八重ちゃんが来てくれてからお客も増えるしで大助かりだわ。……はい、お駄賃はこれでお願いね。よろしく頼むよ!」
"八重"と呼ばれた女性は「任せてください」と微笑むと、のれんをくぐって建物を出る。財布の中身を確認してから懐にしまった女性は、目的の場所へ向かって道を歩き始めた。 小川にかかった小さな木の橋を渡って、そのまま大通りをまっすぐに進めば賑わう声が大きくなる。しばらく歩くと楽しそうな声の中に、喧嘩をしているのか怒鳴り声が耳に入った。 巻き込まれないようにそのまま無視して通り過ぎようとした八重はその中に小さな女の悲鳴が混じっていることに気付きそちらをちらりと確認した。若い女と、それに詰め寄る男二人。男の方は腰に刀を差していることから恐らく不逞浪士だろう。やだ、はなしてください、恐怖の混じった小さな声で抵抗する女に対して、ニヤついた表情を抑えきれてない2人組。周りは困った様子でそれらをちらちらと見ているが、助けようとする気配は全くない。刀をチラつかせ、自分が上だと怯える女に己の要求を強いる。残念なことにこういういざこざはよくある事だった。 彼女は小さく溜息をついた。
「……あの。」
「あ?」
「何があったかは存じ上げませんが、彼女が怖がってるでしょう?離してやってくださいな」
八重は震えている女の前に立つと、掴んでいる男の手首を掴んだ。男の眉間に更に皺がよる。
「町娘ごときが誰にもの言ってんだ?ああ!?」
「おい待て。……こいつ、中々の上物じゃねえか?」
もう1人に止められた男は、八重を上から下まで舐め回すように見るとニタニタと気持ち悪い笑みを浮かべた。この流れはいやでも察しがつく。
「……ほら見ろよこれ。こいつに茶ぁかけられてこっちは散々な思いしてんだ。お前がこの女の代わりになってくれるってんならそいつは見逃してやってもいいぜ」
「……。……いいでしょう。私が"お相手"を」
「!っ、そんな……!」
「大丈夫です。ここは私に任せて貴女はもう戻って。……お遣いを頼まれてますので、早めに帰していただけると嬉しいです」
「善処はしてやるよ」
来い女、と未だにニヤつく男に、彼女は素直に後をついて行った。急に逃げ出さないように彼女の後ろにもう1人がつき、連れて来られたのは人目の少ない薄暗がりの場所。いかにも、な場所でつい溜息が出そうになるのを我慢する。
「人目が少ないのはありがたいですね」
「へへ、いいねぇ。随分とやる気満々じゃねぇか。」
「ええ、最近何もなくて体が鈍ってるなって思ってた所なので……。まあ雑魚相手に憂さ晴らしもたかが知れてるんですけどね」
え?と男が振り返った時には、先ほどから接していたはずの品があって優しそうな顔立ちをした女性の姿はどこにもなく、赤ともとれる綺麗な牡丹色の瞳を光らせ、不敵に笑う女だけだった。
「───だから一瞬でくたばんなよ、クズども。」
「───紬。」
ふと名前を呼ばれ振り返れば、久々に見る顔がそこにいた。 八重───改め、紬は踏みつけにしている男から足を離すと「……いたんだ、清」と白々しく言葉にする。
「嘘つけ気付いてたくせに。……お前さあ、どう考えても力に差があるんだから、もうちょっと手加減してやんなよ。相手人間だよ?」
「手ぶらな私にも勝てない雑魚以下のくせに威張り散らしてんのが気に食わなかった。」
「それは確かにクズだけど、お前が勢い余ってこいつら殺しちゃわないかヒヤヒヤしたこっちの身にもなれっての。……全く、どーすんのこれ」
「屯所近くの見回りコースに投げ捨てとく」
「ひど。」
思ってもないくせに、と完全に伸びている男2人を軽蔑の眼差しで見下ろしながら、彼女は軽くそれを蹴飛ばした。
「……て言うかもう定期連絡の日だっけ。主サマ元気?」
「うんまあ。それより獅子王の胃を心配してやった方がいいかもってくらいには」
「相変わらずだな。……こっちは特に何も起きてないよ。偶然見つけたただの遡行軍3体倒したくらいで、目ぼしい奴は見つけられてない」
「りょーかーい。帰ったら伝えとく」
加州清光のその言葉に引っかかった紬は「帰ったら……?」と小さく復唱したあとで、彼の服装に目を落とした。よくよく見るといつも見ている戦装束の格好はしておらず、内番時に使っている袴に刀を帯刀している姿だった。
「……居座る気?」
「ちょっとだけ。主にもそう伝えてるしー?気分転換にどっか行こうよ」
「……。アンタ今がいつだか理解して───」
「分かってるよ。だから気を張りすぎるなって言いにきてやったんだって。息抜きしろ」
茶化すこともなく真剣な表情で言うものだから、紬も折れるしかなかった。確かに一刻一刻と油小路事件の日が近付いて来ていて、自分がしっかりしなければと根を詰めすぎていたかもしれない。指摘されて初めて、今の自分の状態に気付かされた。 口を出すなと言いたいところだが、確かに休息することも大事だということは本丸で生活してきて何度か思い知らされている。それにこちらにきてからは紬のすることに加州はあまり口を出さなかったのだ。そんな彼が口を出してくると言うことは恐らく無意識に顔が強張っていたのだろう。 彼女は溜息を吐いたあと、深く息を吸って肩の力を抜いた。
「……あ。お遣いを頼まれてたんだった」
「何やってんの。こんな所で油売ってる暇ないじゃん。」
すっかり忘れていたが、急ぎの用事の最中だったことを思い出した。 とりあえずまた後で、と言いながら彼女は財布がきちんと懐にあるかを確認して、倒れた男の後ろ襟を両手に1人ずつ引っ掴む。はいはい、適当にぶらぶらしとくからと呆れた顔で呟く加州に、そうしといてと返事をしながらそのまま紬は薄暗がりの通路を走り出した。 もちろん、男は先ほど言った通り人目のつきにくい新撰組の見回りコースへ適当に投げ捨てて、自身の目的の場所へと足を急がせたのだった。
「紬〜」
彼女を呼ぶ声に、ぱっと振り返る。
『平助くん?……どうかした?』
縁側に座って足をぶらぶらさせながらぼうっとしていた紬は、急に声をかけてきた藤堂平助を不思議そうに見つめた。そんな彼はにこにこと笑みを浮かべながら紬の頭をわしゃ、とひと撫ですると隣に座って言い放つ。
「どっか遊びにでも行くかー?」
『……急にどうしたの?』
「ここにいてもあんま楽しくないんじゃないかって思ってさ」
藤堂のその言葉に、紬は一瞬声を詰まらせたが小さく笑いながらそんなことないよとすぐさま返した。 あんなに騒がしかった日々が嘘だったかのように、ここには何もなかった。あまりにも静かなこの場所は少し居心地が悪い。……いつからこんな考え方をするようになってしまったのだろうか。元々は、紬───上総介兼重というたったひとつの神様だけで、持ち主との会話さえ何ひとつなく、ただ彼を見守りながら、ただ彼のすることに着いていくだけの存在だったのに。同じような存在と出会って、視える人と出会って、主と目を見て話せるようになって。……簡単に意思を伝えられるようになってしまったせいで、多くの感情を知りすぎてしまった。 藤堂がいるのに。藤堂さえいればいいと思っていたのに。彼が望んだ道だというのに。ここは殺風景で、まるで色がない。
「え〜。ていうか俺が暇なんだよ。はじめくんはなーんか心なしか線引かれてるって言うか、こっちに来てからずっと忙しそうだし」
『……ふふ、どこに行こうか。』
「そう来なくっちゃな!どうしよっか!?定期市とか水茶屋に行ってもいいし、貸本屋でもいいし、落語や歌舞伎でもなんでもいいぞ!あ、見世物小屋にでも行ってみるか?紬はどこ行きたい?」
にぱっと笑う藤堂によくそんなにも色んな場所がぽんぽん出るなあと感心しながら、釣られて紬も笑ったのだった。
『うーん……平助くんとなら、どこでも楽しそう』
「絶対そう言うと思った!ちょっとは考えてくれよ〜」
今思い返せば、彼は最初から全部紬の真意を見抜いていたのかもしれない。お調子者で馬鹿ばっかりしてよく土方を怒らせていたというのに、彼は周りをよく見ていて、それでいて他人の感情を読み取るのが上手い。だからきっと、自分の傍にいてくれるたった1つの小さな神様の背中があまりにも寂しそうだったから、彼はきっと居ても立っても居られなかったのだろう。
『じゃ、じゃあ……』
「お?なんか思いついたか?」
『玄武館、とか?』
「さっすが俺の愛刀、名案!……でも息抜きで行くにしては遠いな!」
『ふふ、確かに』
彼だって、あんなに楽しそうに過ごしていたのに。前に比べたら笑顔が少なくなっていたことにも気が付いていたのに。 新撰組のやり方が気に食わなくて、尊敬している伊東甲子太郎に着いて行くと隊を離脱して。それなのに、どうしてたまに寂しそうに笑うのだろうか。 いや、答えは簡単だろう。賢い彼は、最初から伊東の考えに気付いている。御陵衛士は新撰組を外部からサポートする立場であると説明して作られてはいるが、結局は伊東甲子太郎の思想が佐幕ではない。この隊は勤王の志を強く持つ伊東の思想に共感した者が、新撰組から引き抜かれて出来た集団なのだ。 だから伊東についてきた時点で、新撰組とは敵対関係になってしまうのだと彼は理解していた。 やり方に不信感がありはしたが、あの場所は、仲間は嫌いではなかった。ただ伊東の思想に共感して、師匠に着いて行っただけ。かつての仲間と殺し合いたいなんて微塵も思っていなかった。 それは、紬も同じだ。
『じゃあ、甘味処。前に清光に美味しいって教えてもらった所があるんだけど、そこに行ってみたい』
「よしきた!任せろ!……で、それってどこあんの?」
『っふふ、あはは、そうだね。私が案内する』
「頼んだ〜!!」
だから人間でも何でもない彼女が、主に気を遣わせるなんてことがあってはだめなのだ。 ───もう、十分だ。ぜんぶ、忘れよう。奥深くに閉じ込めて、蓋をして。平助くんの、たった1人の大切な主のために、何もかも捨てるのだ。 嬉しそうに笑う彼を見て、紬はそう固く誓ったのだった。
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