桜の花びら三一枚


肺が痛い。息が苦しい。鉄の味がする。
つい先程まで首を絞められ息をすることもままならなかった状況だったのに、こんなにも肺を酷使しなければならないなんて誰が想像しようか。それでも、自分の大切な主だった人を守る為ならばと必死に足を動かし続けた紬は、すぐに池田屋周辺に到着した。
ここで誰かに見つかってしまえば、全て台無しになってしまう。紬は最善の注意を払いながら足音を立てないように屋根の上にあがり、辺りの様子を窺った。しかしやけに静かな通りは、人ひとりの気配も感じられない。


「(一体平助くんはどこに……)」


長年一緒にいた彼女にとって藤堂の気配はすぐに読み取れる。しかしそれすら感じないということは、もう既にこの場から離れているのかもしれない。すぐにそんな考えに辿り着いた彼女に、不安と焦りが一気に押し寄せた。


「(焦るな、考えろ……)」


自分に言い聞かせるように両頬を叩いて頭の中を、そして気持ちをリセットする。思考を巡らせる。


「(時間帯的にも既に山崎さんからの合図を受けて屯所へ向かってる可能性は高い……けどここに来るまでに誰とも出会わなかった。羽織を脱いでるってことは、今の平助くんはそんなに目立つ格好はしてないけれど、それでも私があの人の気配に気が付かないわけがない。三条大橋方面に向かって来なかったとなると…………ああ、駄目だ。平助くんがどのルートを通るかなんて選択肢が多すぎて判断し難い)」


焦る気持ちを落ち着かせるように大きく深呼吸をし、その場で目を閉じる。こうなれば一か八かだ。神経を研ぎ澄ませ、微かな音も逃さないように集中する。遠く、出来るだけ遠くまでの音を漏らさないように。
もし時間遡行軍が藤堂平助を殺そうとしているのならば、この状況は好機でしかない。そんなチャンス、絶対に許してなるものか。
風の音、虫の音。笑い声、怒鳴り声、泣き声。
違う。これじゃない。それでもない。
お願い。少しでいいから、手掛かりを。


「……───、───!」


一瞬聞こえた金属の交わる音。そして、困惑した声。───彼女が知っている、声。


「っ!」


それを確認した瞬間、彼女は一目散に駆け出した。ようやく落ち着き始めていた肺と足を再び全力で動かし、屋根伝いに移動する。
辿り着いた声の先には、彼女の思った通りの人物がいた。それを追いかける複数の影。


「(間に合った……!)」


咄嗟に屋根を飛び降りようとして、ふと立ち止まる。
目に映る浅葱の羽織。


「(これは……流石にまずいか)」

「ほんとに何なんだよお前ら……!」

「(考えてる暇はない、急げ!)」


藤堂を狙って遡行軍の太刀が動き出す。
紬は急いで羽織を脱ぎ捨てると、遡行軍に向かって屋根を飛び降りた。そのまま狙いを定めて刀を振り下ろせば、彼の目の前にいた太刀は真っ二つに裂け灰と化す。


「は……!?ああもう、今度は何なんだよ……!」

「話は後で。危ないから下がってて。」

「!え、ちょ……!?」


紬はそう言って自分の背に藤堂を追いやると、刀を構え直して残りの遡行軍を見据えた。


「(……とりあえず、君が無事なら話は早い。こいつら全員ぶっ潰す。平助くんを狙ったこと、) 私に喧嘩を売ったこと、必ず後悔させてやる」







「───……で、お前は一体何?」


刀を鞘に納める紬を、藤堂平助は訝し気に見つめた。
誰よりも大切な人が、目の前にいる。しかしここで冷静さを欠いてしまえば───否、意外にも彼女は冷静だった。先程そっくりな人物を相手にしていたからだろうか、それとも今が任務の最中で緊迫した空気だからだろうか。少なくとも、あの時のような───夢の中で出会った時のように、心が大きく揺らぐことはなかった。
しかし油断は禁物だ。何もかも失敗に終わってしまう訳にはいかない。それだけは注意しなければと、一度静かに深呼吸をしてから、彼を見た。


「助けてもらったことには感謝してる。けど、その様子じゃお前はさっきのが何かってのも分かってるんだろ?」

「(我が主ながら鋭すぎて困るな……。雑な誤魔化し方したらすぐにバレそうだ。ここは……)……逆に、この格好で、女が刀持って戦ってるとなると、何を思いつく?」

「え、まじ?やっぱくのいち?」


浅葱の羽織を身につけていない今の彼女はノースリーブにひざ丈の着物で、和服ではあるが明らかに江戸時代の女性が身につけているような服装ではなかった。ただ一例を除いては。
彼の問いに答えないまま小さく笑って見せれば、先ほどの怪訝な表情はどこに行ったのやら「うわ俺初めて会ったかも」と一瞬でぱっと表情が明るくなる藤堂。単純な人で良かったと今日ほど思ったことはないかもしれない。


「(否定も肯定もしてないからセーフってことで。平助くんには悪いけど、まだ嘘は付いてない)」

「でも、さっきの動きは北辰一刀流だよな?」

「(目敏い……)……知り合いから習っただけだからよく知らないけど、そうなんだ」

「じゃああの化け物は?」

「それは……申し訳ない。正直あれの正体は私たちにも分かってないんだ。人に害を及ぼしてるから退治してる……と思ってくれれば助かる。……それよりも、私は平……えっと、君に用があってきた」

「俺に?」

「うん。……君、新撰組でしょ?」


紬の一言で再び藤堂は警戒態勢に入った。静かに腰につけた刀に手を触れる。しかし彼女はすかさず両手を上げて害はないことを知らせた。


「ちょっと。最初から殺すために来たのなら既に見殺しにしてるから。というか悠長にしてる暇はないと思うよ。他の新撰組は全員四国屋へ向かったから」

「……は!?どういうことだそれ……話が違う……」

「だろうね。……けれど安心して。私の仲間が池田屋に向かうように伝えてくれてるから。失敗に終わることは恐らくないはずだ。……だから君も、焦らずに私と一緒に池田屋へ戻ろう」


きしゃあああと声を上げながら突然飛び出してきた短刀2体を一瞬で抜刀し素早く叩き切った紬は、灰となるそれを確認すると、殺意を向けられている方を睨み付けた。どうやらまだ数体潜んでいるらしい。
誰であろうと平助くんを狙うやつはぶっ殺すけど、と考えながら再び納刀する紬を、藤堂はまじまじと見つめていた。その分かりやすい視線に内心戸惑いつつも、恐る恐る彼と目を合わせれば。


「……。……お前、名前は?」

「えっ?……なんで?」

「あ、いや……知り合いに似てるなって」


そう小さく呟いた藤堂は、何かを確認するように自身の横をちらりと見た。しかし、その視線の先には何もなく。
あれ……?と呟いて辺りをきょろきょろし始める彼に、紬が「どうかした?」と問えば藤堂は何でもないと慌てて首を横に振った。表情はどことなく焦っているようにも見て取れる。そんな彼が帯刀している刀をぎゅっと握るのを目にしたことで、紬にもとある疑問が浮上した。
そう言えば上総介兼重あの頃の私の姿が視えないけど……平助くんが辺りを見回してたのはそういうこと?いつも彼の傍に居るのに今に限っていないのはなぜ……もしかして私がいるから?個体は別なはずなんだけど……。ああくそ、分からないことだらけだ。
けれど今考えても仕方がないとすぐに結論付けた紬は、先程の彼の質問に返答する。


「……名前は秘密。私の主がくれた大切な名だから簡単には教えられない。でも君の敵じゃないことだけは確かだ」

「え、あ、そっか……そりゃ残念」

「それより私が君を責任持って池田屋に送り届けてあげる。だから今は何も聞かずに、任務を遂行することだけに集中して」


紬はそう言って藤堂が頷くのを確認すると、池田屋の方面へ歩き出した。


「───それにしても、何でそんな効率が悪い動き方してんの新撰組は」


まずは今回の作戦について、なぜそういう───客観的に見れば非効率的であろう方法で行動したのか。
そう率直な疑問を問えば、『どちらが本命か分からないならば可能性が薄いだろう池田屋に誰かが予め配膳屋として潜入しておいては?伝令係としてもう1人ほど外に待機させて本命かどうかを報告させればバレにくいですしこちらも動きやすいでしょう』と言い出した奴がいたからと、藤堂は言った。そして不運にもその伝令係に藤堂平助が選ばれてしまったということだった。
しかし新撰組の参謀である山南なら、そんな効率の悪い指示を出すはずがない。───と、なると。


「……それ、誰が言い出したかちゃんと覚えてる?」

「えっとな、確か……あれ?そう言えば、誰だっけ……?」

「……。まぁいいや。他は?報告がない場合の動きも決めておいたの?全員が四国屋に向かう、とか」

「いや、報告があるまでは動かない、って話だったんだけどな……?」

「ふーん……」


なるほど。やはり、遡行軍の仕業で間違いないだろう。
紬の確信とは別に、藤堂もまた新撰組としての答えに辿り着いていた。


「まさか……隊の中に裏切り者がいたっててことか?」

「……ただもうとっくに姿を晦ましてるだろうから、いくら探しても見つからないと思うよ」


彼の疑問に静かに頷く紬。誰が言い出したのかさえ思い出せないと言うことはそう言うことだ。きっと既に誰の記憶にも残ることなく新撰組から抜け出しているに違いない。
さて、あまりもたもたしてはいられない。一秒一秒と、討ち入りの時間は過ぎようとしていく。こうしている間にも敵は別の策を練って、実行しているかも知れないのだ。
先を急ごう。そう言う紬の声で、2人は少し足を速めた。
池田屋まで、あともう少し。


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