桜の花びら三〇枚


───からん。

完全に気が緩んでしまっていた彼女の手から、するりと刀が滑り落ちた。
その音にハッとした紬は、無意識に伸ばしかけていた手を引っ込めた。不思議そうな顔を見せ「紬?」と首を傾げる藤堂に「ごめん」と小さく謝る。


「……それでも、いくら平助くんの言葉でも……いくら君が強くても、今はだめだよ」


紬が傍にいても、危機的状況がなくなった訳ではないのだ。


「確かにここを通った方が早いかもしれないけど───」

「……なんで?」

「何でって……この状況が平助くんには視えないの?」

「見える?何言ってんだよ紬。……なあ、お前は俺の刀だよな」


じり、と近寄る藤堂。先ほどとは打って変わって、今までに見たこともない表情を見た紬は、ぞくりと背筋が凍ったような感覚を覚えた。
こんな顔、知らない。迫る藤堂に対して、つい一歩後ろへ下がる。


「平助、くん……?」

「何で?何でお前は主の言うことに背くんだ?俺の言うことは、いつも聞いてくれてたじゃん。なあ」

「急にどうし……っ、」


じり、じり。この時初めて、少しずつ近寄ってくる自分の『主』に彼女は恐怖心を抱いたかもしれない。
やばい。そう脳が理解した頃には、紬は反射的に落ちた刀を拾おうとした。だが残念なことにその手は空を切り、落ちていたはずの場所に刀がなくなっている。
目の前にある足で蹴られたのだと気付くがもう遅い。顔を上げることも出来ずに視界がぐりんと回転した。同時に鈍い音と痛みが体や頭を支配する。


「紬!」

「くそ、きりがねぇ!」

「オラァ!っ、頼むから折れるなよ紬!」


───アイツらの、声が聞する。
この声は、堀くんと、兼定と安定か。そんなことを呑気に考えながら、紬はうっすらと目を開いた。倒れている彼女を見下ろす"藤堂"は、どこか虚ろな眼をしていた。
倒れた時に、頭を打ち付けたのだろう。視界はちかちか、頭はくらくらする。


「へい、すけ、く……」

「お前が。お前が言うこと聞いてくれれば、こんなことしなくて済んだんだ」

「うっ、平助くんやめ……」


紬が動けるようになる前に、"藤堂"は逃がすものかと彼女に馬乗りになった。空いた手が彼女の首にゆるりと巻き付く。


「じゃあ俺の手を取ってくれるか?」

「それ、は……、っ!う、あ、」


やっぱり……。目の前の"藤堂"は乾いた笑みを零しながらそう呟いて、首に巻きついていた手の力を一気に込め始めた。喉が圧迫されヒュッと変な音がする。
ずるい、ずるいよ。そんな質問。何でそんなこと聞くの。私にとってキミはこの世界のことを教えてくれた人。ずっと傍で守りたかった人。誰よりも大切な人。


「ぐっ、ぅ……や、め……っ」


明らかに自分より体の大きな目の前の男に、抵抗しても敵わないのは当然だった。
動けば動くほど、首が締まり、苦しさは増す。肝心な蹴飛ばされた刀は、見える位置には在った。しかし現時点で、手を伸ばせる余裕などあるはずがないのだ。


「紬!新撰組俺たちはいくらでもやり直せる!……平助が果たせなかったことをお前が叶えればいい!みんなお前が"帰ってくる"のを待っているんだ!だから、だから絶対に負けるな!紬!」

「……っ、」


───ああ、曽祢さん、今までに聞いたことないくらい焦った声だなぁ。
力が抜けていく感覚の中で頭だけはやけに冷静で、彼女はそんな呑気なこと考えていた。


「戻る?俺を殺した隊に?……はは、そんなこと無理に決まってる。……なぁ紬、"俺は紬のことだけは誰よりもしっかりと見てるから分かるよ"」


そんな長曽祢の言葉を遮るように、いつか聞いた言葉を、目の前の彼は呟いた。


「"俺の前では何も我慢しなくていい。泣いたっていい。思ったこと全部俺に教えてくれ。何でも聞いてやる"って、お前にそう言ったことあるよな?だから本心を教えてくれよ。お前には俺しかいない、そうだろ。俺を置いて『向こう側』に行けるのか?無理だろ。……なあ、早くこの手を放してほしいなら、頷いてくれよ」


俺と一緒に行こう、そう哀しい瞳を見せながらそう訴える目の前の人。しかしそれは「っざけんなよ……」と腹の底から湧き出ているかのような怒りに満ちた声によって掻き消された。
───この状況でこんなこと言い出す奴なんて、1人しかいない。


「いっつも平助平助ってうるさいくせに!肝心な時に、何やってんだよお前!……そんなに大切なら本物と偽物の違いくらいすぐに分かれよバカ!ほんっとばか!ばーーーか!!」

「……っ、ば、かは……そっ、ち……っだろ」


呟いた言葉は、全くと言って声にならなかった。
───本物の平助くんじゃないなんて、既に・・気付いてんだよ。何年彼の傍にいたと思ってる。
それこそ最初は突然のことに処理がしきれていなかった紬は、本当に藤堂本人だと思っていた。しかし冷静になって考えてみればおかしな言動は最初からあったのだ。
───でも、……それでも。いくら目の前にいる人物が偽物でも、私に『平助くん』は殺せない。決定的に平助くんとは違う何かがないと、どうやら私には無理みたいだ。
本物を侮辱してるだけの紛い者ならまだ紬に勝ち目はあったかも知れない。けれど目の前の人はただ哀しそうな目で、ただ寂しそうな声で、純粋に彼女に訴えているのだ。だからこそ、紬は全力で抵抗出来なかった。
次第に瞼が重くなる。締まる首に当てられた手を退けようと彼女なりに抵抗していた手は、力なくだらんと地面に落ちた。そこにたまたま、蹴飛ばされたはずの自身の刀が指先に触れるが、残念ながらもう握る余力は残ってはいないらしい。
思えば、人の身体を得て面倒なことばかりだった。顕現されてから本丸で過ごした出来事が走馬灯のように流れてきて、紬はふとそんなことを考える。
彼女の名を叫ぶ声がいくつも耳に入ってくる。反応も出来ずにただ重い瞼を必死に開いて、目の前の男を見つめていれば、それは酷く悲しそうな顔で、声で、また彼女の愛称を呼んだ。


「紬、紬……どうして……どうして……」

「……、」


───ごめん、『平助くん』


「俺は……、俺はこんなにも、お前のこと愛してたのに」


ぽたり。彼から零れ落ちた涙が、彼女の頬を伝った。その言葉や表情に閉じかけていた瞼が一気に開き、目頭が熱くなる。


「っ、……め、……ん」

「?」


───ごめん。ごめんね。それから……





ありがとう。

紬はぎゅっと掴んだ『それ』を、渾身の力を込めて逆手で振り切った。
すぱん、と斬れ味の良い音が響くと同時に目の前の男の首が一瞬で無くなった。藤堂の姿をしていたそれは、やがて時間遡行軍の姿に変化し、成す術なく灰と化して空へ待っていく。
一気に締まっていた首が突然開放され、肺が空気を一気を取り込んだ。当然ながら咽て咳が出るが、すぐに呼吸を整えゆっくりと起き上がる。


「確かに……、沢山愛してもらったよ」


愛されてるな、ってしっかり伝わるくらいにあの人から抱えきれないほどの愛をもらった。


「……でも。綺麗だとか、大切な相棒だとか沢山言ってくれた平助くんでも、面と向かって私に『愛してる』なんて言ってくれたことは、今までに一度もない」


だからこそ、彼女はそんな藤堂に一生ついて行くと決めたのだ。言葉なんてなくても分かっている。ちゃんと伝わっていたのだからそれでよかった。
立ち上がる紬の背後に忍び寄っていた遡行軍の短刀を、彼女は目視もせずに叩き切る。
しかし、一番肝心な問題はまだ終わっていない。再び紬を狙い始めた遡行軍を遮るように彼女の間に立ったのは長曽祢虎徹だった。


「行け紬!お前だけでも平助を頼む!」

「!……っ任せて」


ありがとう曽根さん、そう呟いた紬は彼らに背を向けると池田屋へと向かって走り出したのだった。
───私の世界で一番大切な人。
何がなんでも死なせてやるものか。


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