桜の花びら一三枚
「───……目が覚めたら、そこには検非違使も遡行軍もいなかった。……だから、帰ってこられたんです」
それが私がひとりになってから全てのこと。彼女は話を終えると、静かに息を吐いてそっと目を伏せた。 沈黙が続く。殆どが安堵の表情を見せていた中、審神者の2人と和音本丸の清光はどこか腑に落ちないような顔を見せていた。
「……それで?何でそんな腑に落ちない顔をしてるのか聞いてもいい?清光」
「え?」
「あ、いや……アンタじゃなくて和さんの方の清光」
着ている服が違うため見分けがつくけれど、この空間に二振りも清光がいるなんてとても紛らわしい。───という事で姿はともかく、これからはウチにいる方を勝手に清と呼ぶことに決めた。そう頭の隅で考えながら和音の方の加州をじっと見つめていると、彼は「遡行軍の動きがよく分からない」と呟いた。
「検非違使と戦ったってことは歴史修正主義者だよね。なのに何で紬にトドメを刺さなかったんだろうなって」
「そうだね、加州くんの言う通り検非違使も歴修者も私たちからしたら両方敵なわけで……。見逃すのは少し可笑しい」
加州と和音の言葉に和真が頷くということは、彼もそう思っていたのだろう。
「ボロボロで折れそうだったし、もう動くことは難しいと判断したからじゃないの?」
「……安定くんの言う通り、僕もそうとしか考えられないよ」
「だな、見逃す理由はそれしかねぇだろ」
「でも和音や主たちの言うように、妙に引っ掛かる部分もあるな」
「長曽祢もそう思うか。……でもまぁ理由は何であれ、紬を見逃してくれたのはラッキーだった。でも……それってつまりは、敵も何らかの感情を持ってる……ってことになるよな」
大和守や堀川、和泉守に続いて言った和真の言葉に、突然くすくすと彼女は笑い出した。今の発言のどこにそんな笑う要素があったのか。全員はそんなことを思いつつ彼女を黙って見つめていると、笑いを抑えながら、主サマは可笑しなことを言うねと呟いた。だが、はぁー……と息を吐く彼女から、さっきまでの笑いがウソだったかのように笑みがふっと消える。
「敵に感情があった所で今までと何も変わらない。どの道殺らなきゃいけない相手なんだから余計な情報は知るだけ無駄だ……絶対に戦いの邪魔になる。……敵だから斬る、折る、殺す。それが例えどんな敵であろうと。違います?」
「紬ちゃん……」
「……と、まぁ、私が言えることは全て言いました。報告は以上です」
なぜあの場に大勢の検非違使が来たのかも、なぜ歴史修正主義者が再び現れたのかも何一つ分からなかったが、紬が帰って来てくれたことが何よりも大事で安心した。 紬の話を聞いた後は傷に障るといけないからとお開きになり、全員はその場を後にする。彼女は絶対安静と言うことでまだゆっくり休めと再び横にさせた。 和音とその近侍は、流石にこれ以上滞在する訳にはいかないし自分の本丸のこともあるからと言うことで荷物をまとめて帰っていった。 その日の夜には、五虎退と一期一振が彼女の元へやってきた。横腹に受けた深い傷はあの時の自分を庇ったからじゃないかと思い謝りに来たのだ。
「……五虎退、ありがとう」
彼女の言葉の意味を理解出来ない2人は、なぜあなたが礼を言うのだと眉を顰めた。
「みんなを連れて帰ってくれてありがとう。君があそこで私の指示を受け入れてくれたからみんな折れることなく帰れたんだよ」
「そんな……僕のせいで、紬さんがこんなにも傷ついたのに…」
「いや、君を庇おうと思ったのは私の判断だし。五虎退は何も悪くないでしょ」
「……で、でも……っ」
「確かに庇うために君の前に行くよりも、最初からあの槍の首を斬り落としてたら私は怪我しなくて済んだのかもしれないね……なーんて。でもまぁ、それも結局は私の判断ミスだし」
隊長としてはまだまだだった、と苦笑した。
「次は……次こそは、みんな無傷で帰ろう。ね?」
「紬殿……弟を守ってくれて本当に感謝します」
「いいえ、五虎退が無事で何より」
「本当になんとお礼申し上げたら良いのか……紬殿には感謝しきれません」
「その言葉だけで十分です。……それより一期さん、その殿ってやめましょう?私、生物学的性別は一応女だし……紬でいい」
五虎退と一期はもう一度お礼を言うと、手入れ部屋を出て行く。もう、誰かが死ぬのは見たくないからね……と、そう呟いた彼女の言葉は誰にも届かず消えていった。 その日から、彼女は布団での生活が続いた。元々腰あたりまであった髪は敵に斬られ乱雑になってしまったため薬研に揃えてもらい、肩に付くくらいの長さに変わった。 怪我の影響で立つことなど自分自身の力で大きく動くのは勿論、誰かの手を借りて移動するものままならない状態の彼女は、朝昼晩ずっと手入れ部屋の布団の中にいた。無理をすれば身体中の痛みは当然のこと、全然という程に癒えていない傷口が開きすぐに出血してしまう。 槍のせいで内蔵をやられてしまっていた故に、吐血もしばしば。食事も少量しか口にせず、あまりとることが出来なくなっていた。だが、それでも彼女は微笑んでいた。治ったら沢山食べるので今はいいんです、と。 そんな彼女に少しでも楽しく過ごしてもらいたいと考えた刀剣たちは、彼女の元へお見舞いに行ったり、遊びに行ったりしていた。 食事の時間も何人ずつと順番を決めて、彼女と一緒に食べる時間を儲ける。最初は和真と獅子王の2人。次に新撰組の刀5人。そして粟田口の短刀たちが半々と2回に分けてやってきた。その次は浦島と鯰尾と骨喰。来派に左文字、三条や長船、本丸にいる全員が順番に来てくれた。
数日経った今日の昼頃は歌仙が短刀たちを連れて紬の元へやってきた。どこから入手した情報なのかはさておき、彼女が百人一首を趣味の一つとすることを知った歌仙はみんなでやろうじゃないかと、百人一首を持ってきていたのだ。動くことが出来ない彼女は進んで読む係になり、スラスラと詩を読む。短刀たちの楽しそうに遊ぶ姿を見た彼女は、微笑ましそうに小さく笑った。
「紬は、どんなうたが すきなんですか?」
「私?私は……百人一首の中だと『諸共にあはれと思へ山桜 花よりほかに知る人もなし』かな」
山桜よ。私がお前をしみじみと懐かしく思うように、私のことも懐かしく思っておくれ。こんな山奥にわけ行った今の私には、お前の他にこの心のうちを知ってくれる人もいないのだから。 それがこの句の意味だった。
「でも何かそれ……寂しいって言うか、切なくなぁい?」
乱の言葉に「そうかな、私は好きだよ」と紬は呟いた。
「では先ほど百人一首の中だと、と仰られていましたが……それ以外で他に好きな句があるということですか?」
「うん……前田の言う通りあるね、一番好きな詩」
「へぇ……それはどんな詩か聞かせてもらってもいいかい?」
「……"明日ありと 思ふ心の仇桜 夜半に嵐の吹かぬものかは"」
彼女の歌った詩に、歌仙は風流だねと目を細めた。どういう意味ですかと首を傾げた秋田に紬は簡単に意味を説明する。
「明日も美しい桜が見れるだろうと安心していても、夜に嵐が来て桜は散ってしまうかも知れない……って詠ってるんだ。桜の運命と同様、明日の事は私達には分らない、明日も自分に命があるとは限らない。だから今を精一杯生きる。そういう意味」
「なんだか紬みたいなうたですね!」
「君の言動は稀に目に余るものがあるけれど、それ以外の時は雅だから好きだよ」
「……何それ褒め言葉?」
褒め言葉さ。和歌が好きだと知って尚、気に入ったよ。そう言った歌仙は久々に楽しいことをしたと笑った。今度は紬も取る方になって一緒にやろうねと短刀たちと約束をし、部屋を出ていく彼らにその場で手を振って見送る。 しかし、静けさが戻った1人だけしかいない手入れ部屋で、彼女は深く重い息を吐いた。
「………。」
───この傷は、本当に治っているのか。 こんなにも治りが遅いのはあまりに不自然だ。流石に人間も今頃はもう傷は塞がっているのではないか。 包帯の巻き直しは堀川が進んで手伝ってくれていた。と言っても出来るところは全て自分でして、背中などの見えない上に手の届かない位置の場所だけを手伝ってもらうだけ。昔から兄のような存在であったために、特に何の抵抗もなかった。
『───……紬は、闇堕ちする可能性が高い。』
急に三日月の言葉を思い出し、紬は眉間に皺を寄せる。ふと、待っているみんなの元へ向かう直前のことを思い出した。彼女は、どうやら聞いてはいけない話を聞いてしまったのかも知れない。彼女は襖を開くのを止め、三日月の言葉の続きを待っていた。
『───残念ながらなくはないぜ堀川。俺も2回とも見ている』
『───……眼だ。敵の姿は知っているだろう?瞳が濁っていつつも、あの様な怪しい光を放つ。……あとは纏う神気だな』
『───余程前の主に思い入れがあるようだ。辛いことを思い出させてしまえば……恐らく一瞬で堕ちる可能性がある』
『───もし……帰って来なかった紬が闇堕ちしていて、俺達と敵として再会した時……そこに私情は挟むな。斬る覚悟だけはしておけ』
初めての出陣でお目にかかった敵───歴史修正主義者と検非違使。どちらも、纏うオーラと目的は違えど同じ形をしていた。そしてどちらも共通して、その目的を果たすための強い意思や力は目に宿っていたかのように見えた。 濁っていつつも、異様な輝きを放つ不気味な瞳。それは過去を変えさせないために戦う刀剣が、何らかの理由で過去を変えてしまいたいと強く願った時にも生じるのだ。眼が焼けるように熱くなり、暗闇の様な真っ黒い何かに呑み込まれた感覚と共に。 確信はなかったが自分の身に起きたことだ、何となく分かっていた。思い当たる節があるのだ。視界や心、頭の中まで闇に蝕まれているような感覚に陥る。そして我を忘れ、ただ相手を斬り殺すことだけに集中するのだ。 だがその後のことは紬には分からない。完全に堕ちた刀剣はどうなってしまうのだろう。目的を果たすためだけの人形のような存在に成り下がってしまうのか、はたまた自分の意思を持ち続けたままかつての仲間と知っていて戦うのか。それは、なってみないと分かり得ないことだろう。 ……闇落ち、か……。ぼそりと呟いた彼女の掠れた音は誰にも聞こえることなく消えた。 と、突然。手入れ部屋の障子が開いた。驚きながらも開けた者に目をやれば、先程一緒に百人一首に参加していた小夜左文字がそこに立っていた。黙って彼女を見る小夜にどうぞと呟けば、静かに入って障子を閉めこちらへやって来る。
「……どうかした?何か忘れもの───」
「あなたは……誰かに復讐を望むのか……?」
これはまた、唐突な質問だ。
「……何で?」
「僕たち仲間のせいで、敵のせいで、あなたはこんなにも傷ついた。恨んでいても可笑しくはない……」
「小夜。仲間を守ろうとしたのは私の意思だよ。……それに、戦に負傷は付き物だ」
ただ自分の目の前で大切な誰かを失うのが怖かっただけ。だから体がとっさに動いたのだ。そんなことで仲間を恨むものか。 紬はその思いを口にはしなかったが、小夜を見つめる目がそう物語っていた。
「刃が折れても、この身が切り裂かれても、1度守ると決めたものは何が何でも守り抜く。……これが私の戦い方だから」
「じゃあ……新撰組は?彼らへの復讐心はまだあるの…?」
「……正直、私が顕現された時からそれだけを目的として過ごすつもりだった」
けれど。それは嘘で、ただの紬の勘違いだった。真実ではなかったと知った。
「今は……そうだね、復讐心はもうない。大好きだった主と最初で最後の大切な約束をしたから。それを果たさないと」
「……。」
「……本当は言いたいことなんていくらでも出てくるし、新撰組のこと許せたわけじゃない。今でもまだ言動に苛立つこともあれば、あの頃を思い出して寂しくなったりもする」
今考えれば、こうならずに済んだ道なんていくらでもあった。何でこうしなかったのか、ああ出来た筈だ、なんて思うことは沢山あるけれど、なってしまったものは仕方が無い。そういう定めだったのだ。大切な主にそう教えられたから、彼女は今『この場』にいる。
「でも、もうダメなんだ。物と同じで1度壊れたものは完璧になんて直せない。……今は本丸の仲間だから話せてるだけであって、きっと私は、新撰組としての彼らとは関われない。好きに、なれないんだ」
「……、」
「きっともう……仲の良かった、あの頃の様にはいかない。戻れない。けれど同じ本丸に住む仲間としてなら、またそれに近付けることは出来るんじゃないかな……って、今は思う」
『───そんなの無理に決まってんじゃん。闇堕ちしたなら元に戻すし、そもそもそんな事させない!』
元に戻す方法が分からないから三日月も斬る覚悟をしておけって言ったんだろうに。 最初に歴史修正主義者の末路は刀剣だと三日月が彼女に教えたのにはきちんと理由があったのだ。彼は『お前はそうはなるな』と言う意味を込めての忠告だったのだと、彼らのあの話を耳にしたことで気付いた。 だが、もう迷はない。守るべきものが出来たから。この本丸と、今の主、そして前の主との約束を守るために、堕ちるわけにはいかないのだ。 彼女はふっと笑うと「だから復讐なんてする必要、どこにもなくなった」ときっぱり口にした。 だが、どこか納得いかない表情で彼女を見つめる小夜。
「アナタが復讐を望まないことは、はっきりと分かったよ……けど、どうしてかな……黒い靄がかかった様にすっきりしない……」
「靄……?」
「そう…………アナタは、何かを隠している」
「……。」
いつも賑やかで誰かしらの声が聞こえるような本丸に、有り得ないほどの静寂が訪れた気がした。普段から大人しくて落ち着いている小夜の目はいつにも増して真剣で、何かを見透かしているような気さえする。
「…………、」
「…………、」
息をしているのかも分からない静寂に包まれたまま、2振りは何も言うこともなくただそこに座ったままだった。まるで手入れ部屋の時間が止まっているかのようにその場からぴくりとも動こうとしない。小夜はじっと紬を見つめていた。 そんな彼らだったが静寂を破るように彼女は息を吐き、含み笑いを見せた。
「……別に、君たちに言うことなんて何もないよ」
「はぐらかすの……?」
「はぐらかしてるつもりはない。私はみんなのために必要だと思ったことは全て報告するし、伝えてるつもり。大切な仲間だから。……じゃあ100%全員が不必要で為になんてならないと思う話だったら?小夜は、わざわざそれを聞かせたいと思う?」
「……ならない、」
「うん、それが正解。つまりはそう言うことだ。どうでもいい情報なんて誰も知りたがらないし必要としない」
どうでもいい情報が必要に変わった時はきちんと伝えるから、今はその時が来るまで自分の胸にそっと留めておくことにする。彼女はそう言うと静かに微笑んだ。小夜は小さくもはっきりと頷くと、その場から立ち上がり手入れ部屋を後にする。
「……必要になってからじゃ遅い、ってならないようにしないといけないけどね……」
呟くように言葉を発した紬の言葉は、既に部屋を出ていった小夜には届くはずもなかった。 思った以上に小夜左文字は鋭かった。確かに紬は、あの時の検非違使との戦いについての報告で、まだ誰にも言ってないことが1つだけある。 彼女は左手へ視線を落とし、包帯が巻かれた掌にそっと触れた。
「次はきっと……帰っては、来られない」
予測するに。残念ながら完全に闇堕ちしてしまえば、二度とこちらへは戻れないだろう。それだけは簡単に分かった。 なぜなら。1人で検非違使と戦ったあの時、あの場所で、彼女は一度───
───堕ちてしまったのだから。
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