「あ、やべーこれマジでやばい」
坂田くんはたまに語彙力が欠如する。いつも、わたしが真似できないような例えを用いてツッコミをいれているのに、どうしたんだろう。言葉が出ないぐらいやばいと、ポジティブに変換してもいいのだろうか。
「ななこちゃんってよォ、どうもこう…なんてーの? 的確に俺の味覚ついてくんだよね」
「そう? ありがとう」
坂田くんが頬張っているのは彼に作ってあげたお弁当のおかず、たまごやきだ。わたしは出汁入りのたまごやきを食べて育ったが、どうやら関東は甘いものが主流らしい。ネットで拾ったレシピを参考にして作ってみたが、予想以上に好評だった。子どもみたいに口いっぱいに頬張って、夢中で食べる姿を見ていると思わず笑ってしまう。
彼はいつも、お昼は菓子パンだ。遅刻をすることは少なくなったけど、ギリギリの時間の中でコンビニに立ち寄り、惣菜パンよりは甘めの物をチョイスして買ってくるらしい。その乱れた食事風景を隣で眺めていたが、体に悪そうだし心配になるしで、ふと思い立って提案してみた。たまにお弁当作ってこようか? と。
坂田くんはキョトンとして、言葉に詰っていた。わたしは、これは失敗したやつかな、とひとりで焦った。だからすぐ口をついて"ごめんね"という言葉が出た。すると彼はより一層困った表情を見せる。
「ななこちゃんの作った弁当すげー食いたい」
「…本当? 迷惑じゃない?」
「そんなん思うわけねーよ。こっちこそ迷惑じゃなけりゃあ毎日でもウェルカムだっての」
そんなやり取りを経て、自分がお弁当を持っていくときは坂田くんのも準備している。つまりほぼ毎日ということになるのだが、今のところ苦ではない。
そりゃあ、ついこの間まで毎食ふたり分を準備していたんだから。
「ななこちゃん?」
低い声で呼ばれて我に返る。坂田くんを振り向くと、真っ直ぐに見つめられていた。
「あ、ごめん。ボーッとしてて」
自分の分のお弁当を食べながら絡みつく視線から逃れる。わたしは、こんなタイミングで何を考えてるんだろう。ーーー坂田くんとふたりなのに。
"もう終いだ。ここにも来ねえ"
晋助くんはその言葉通り、あれから一度も姿を見せない。見慣れた部屋の所々に彼の面影があるのに、瞬きをすれば簡単に消える。最後に嗅いだ、苦い香りもうろ覚えだ。
そのくせ街中で似たような匂いとすれ違ったなら、足を止めてまで振り返ってしまう。そこにはいつも似ても似つかない人が立っていて、それだけで瞬間的に惹かれた匂いすらももう全く違うものに思えた。
狭い狭いと思っていたワンルームは近頃広く感じる。ぺらぺらのせんべい布団が冷たく感じるのは季節が巡ったせいにしたい。でもご飯をつい作りすぎてしまうのは何のせいにもできなかった。
冷凍庫の中がパンパンでどうしようもない頃に、坂田くんのお弁当を作ることになって正直ラッキーだと思った。来るはずのない人のためにご飯を作るのをやめられなかったからだ。
事あるごとに晋助くんの笑みを思い出すのに、それを実際に見ることは叶わない。ハッとして目を覚ますといつも真っ暗闇の中でぽつんとひとりだけだ。それを繰り返しつつも学校を休む勇気もない。そこへ行くと坂田くんだけが出迎えてくれる。
友美と友達になれたのはきっと、坂田くんがわたしに声をかけてくれていたからだ。
“昨日のキックベースすごかったね! あたしと友達にならない?”
そう声をかけてくれた彼女は小学校の頃からの付き合いだという彩子ちゃんと一緒だった。ふたりの仲に入れてもらったのだ。自己プロデュースに余念のない友美に一目惚れしたというのが友也くんで、彼の友達がのちの彩子ちゃんの彼氏だ。
だから坂田くんと友美が別れ、坂田くんがわたしを好きとなれば、今まで一緒に行動していたグループはあっさり解散となる。
今日も今日とて講義は坂田くんと並んで受けていたし、お昼ご飯ももちろん彼と一緒。帰る間際まで側にいてくれる。
一瞬にして、わたしの周りは坂田くんだけになってしまった。