あなたという人 1/3 

 晋助くんはあれからしばらく寝込んだ。バイトの合間を縫って、体温計を買ってきて測ってみると、体調を悪くして2日目だというときにも38度台の高熱があった。
 食欲がないようで、果物やゼリーといった口当たりのいいものを少し食べるだけ。動くこともままならず、ずっと息苦しそうにベッドで横たわっている。
 そんな状態なのにもかかわらず、晋助くんはよくわたしの名前を呼んだ。そしてバイトの休憩や終わったあとに連絡をすると、彼が起きていれば電話がかかってきた。

 晋助くんは、不安なんだろうか。

 “ どうして俺は、お前の目が他に向いてしまいそうに思うんだろうな”
 そんな言葉を発してしまうような心情が全くわからないわけじゃない。上京してから今までの期間、短いようで長く感じたあの間で、わたしはいろいろな感情を経験していた。
 相手が気にも留めていないちょっとしたことに反応してしまい、胸がきゅんと狭くなるようなときめきを感じたあとの、どう足掻いても泥沼に落ち込んでいってしまうほど気持ちが下へ下へ沈んでいくような感覚。
 坂田くんがこちらに向けて微笑んだあとに、他の女の人の手を握るのを直視するような…、自分で例えるならそんな状況にずっといるのかもしれない。



 わたしのせいなんだろうか。

 いや、きっとそうに違いない。

 それなら、こんなわたしが晋助くんの側にいてもいいの?



 ぽつん、ぽつん、と浮かんだものを相手には聞けなかった。苦しそうに呼吸するその切れ間に名前を呼ばれ、手を伸ばされては、そんなことできるはずもない。
 答えは明白だ。そばにいることを許されている。望まれている。ただわたしが自信を持てず、出口などどこにあるかまるでわからない渦の中心で悩んでいるだけ。
 自分のせいだ。だから心の中にそっと押し秘めて、辛そうな晋助くんの看病をした。

 連日バイトだったが、自分の家にはほとんど帰らずに晋助くんのマンションに通いつめた。カードタイプの鍵を握らされて、手を震わせながらオートロックを解除したあの感覚はしばらく忘れられそうにない。
 晋助くんの熱は3日ほど続いた。やっと丸一日、平熱で過ごせたときは、わたしのほうがホッとしたような気がする。咳が治まるまでその後数日を要したが、ようやく本調子に戻ったように見える今日はもう、大晦日だった。

「晋助くん、ご飯食べれそうですか?」

 シャワーだけでいいと言う晋助くんを必死に説得して、浴槽に溜めたお湯でしっかり体を温めてもらっている間、わたしはその日の夜ご飯をどうしようか決めかねていた。
 麺類は消化がいいと思われがちだが、蕎麦はうどんなんかに比べて脂質と食物繊維が多いらしく、実は消化が悪いものだと聞いたことがあった。晋助くんは寝込んでいるあいだ、ほとんど物を食べていない。その後も雑炊や鍋など、比較的あっさりして、体を温めてくれそうなものばかりを出していた。
 いくら大晦日といえば年越し蕎麦だとしても、また体調が悪くなったらどうしよう。そんな少しの要素でも心配になるほど、晋助くんは今までに類を見ないぐらい体調を崩していたのだ。

「さすがにもう大丈夫だろう」
「本当ですか? 熱戻ってきてない?」
「心配しすぎだ」
「そんな心配するぐらい熱出して咳してたのは誰ですか」
「……」
「あ、また無視する!」
「返事できねェだけだ」

 ソファーに座る晋助くんはふ、と口角を持ち上げた。わたしはというとアイランドキッチンのシンクの前で献立に悩んでいるところだったが、晋助くんが笑う余裕ができるほど回復していることに嬉しくなった。
 そんな様子を見ていたら、お蕎麦にして、例え天ぷらを乗せたとしても大丈夫そうな気がしてきた。

「今日は大晦日だからお蕎麦にしようかなと思ったんですけど」
「もう年末か」
「早いですよね。だから今から買ってきますね」
「俺も行く」
「えっ、ダメです!」
「あ? なんでだよ」
「お風呂出たところだから湯冷めしますよ」

 わたしは大晦日までバイトのシフトが入っていた。勤務時間は夕方までだったが安定の残業に加え、自分のアパートに着替えを取りに行ったり、軽く片付けたりしてからマンションに着く頃にはもういい時間になっていた。
 帰りにスーパーに寄り道すればよかったと思うも、もう後の祭り。わたしが帰ったタイミングで目を覚ました晋助くんは、寝汗をかいたらしく気持ち悪そうにしていたのでとりあえず風呂の湯を沸かした。そして洗濯物が目につき、洗濯機を回したら今だ。時計の短針は8を指している。
 わたしは休憩がずれ込んだせいで15時にお昼ごはんを食べたけど、晋助くんはそうじゃないはず。というかわたしがいないときは、ちゃんとご飯を食べているかすらも怪しい。

「外を歩かなきゃいいだろ」
「どういうことですか?」
「車、出すから乗れよ」
「………えーと、晋助くんって何歳でしたっけ」

 年下であることは間違いではないはずだ。高校生であることは本人も認めている。

「18」
「2個下だったんですね。今は高校3年ですか?」
「あァ、誕生日きてすぐに免許とった」
「へえ、誕生日はいつなんですか?」
「8月10日」
「普通に過ぎてますね」
「もう年末だからな」
「そうですね、…今日が一年の最後の日」

 早いものだ。晋助くんの学ラン姿を見てから、もう半年以上も経過している。その間、知らぬ間に彼はひとつ大人になっていて、車の免許を取得するという階段まで登っていた。

「なに感慨深い顔してんだ。いいから行くぞ」

 幼さなんかまるで感じさせない晋助くんはゆったりとした動きで立ち上がり、玄関へと続く扉の方に歩いていく。それに慌ててついていき、自分は手に取ったアウターを羽織りながら、晋助くんがもう一室に入っていくのを見送った。
 玄関で先に靴を履いていると、ダウンジャケットを着た彼がやってきた。……本当に大丈夫なんだろうか? そんなことを思いながら、同じように靴を履く姿をじっと見つめる。

「どうせまた心配してんだろう」
「だって晋助くん病み上がりだし…」
「もう治った」
「それは知ってるんですけど…」
「ななこのお陰でな」

 そのタイミングで晋助くんがドアノブに手をかけたから、わたしは彼を避けながら「いえ…」と呟くように返事した。
 開いていくドア、その隙間に体を滑り込ませていく晋助くんは前を向いている。思わず目で追った横顔。彼はゆるりと口角を持ち上げていた。

「自分も毎日バイトがある中でここに通いながら、ぶっ倒れてるやつの服、着替えさせて、体拭いて、飯食わせて、……母親にもされたことねェ」





 ーーーその背中を、情景を、わたしは知っているような気がした。
 いつだったか、記憶のどこかにそれはあるはず。だって既視感がするから。こんな近くにいるのに消えてしまう一歩手前のような、今手を伸ばさなければ後悔するような、そんな感覚を味わう。

 だから必死になって、晋助くんの手を掴んだ。掴まれた本人はこれまたゆったりとした動きでこちらを振り返り、わたしをその隻眼で捉えたなら、驚いたように目を見開いた。

「……なんて顔してんだよ」

 閉まりかけるドアに手をついて、ククッと喉の奥を鳴らすように笑った晋助くんはわたしの手を握り返してくれた。さらには腕を引いて、外へ引っ張り出してくれる。

「お前はそんな顔しながらも、俺のことは本当に何も聞かねェな」

 ひとり置き去りにされなかったことに安堵しながらも、続いた言葉にどう返事すればいいのか、どういう表情でいればいいのかわからなかった。
 だから晋助くんの手を離すまいと握り締めて、その横を着いていく。エレベーターに乗ったことでふたりだけの密室となってしまい、自分が何か返事しなければと焦ってしまう。最近よく感じている浮遊感に気持ち悪さを覚えながら、自分の気持ちを声にできるよう、必死で言葉を選んだ。

「………それは、わたしの知りたいことが晋助くんの話したくないことかもしれない、から、」

 だから、と続けたものの先に繋がらなかった。だから結局はいつものように「すみません」と謝って、足元へと視線を落とす。
 今度は晋助くんからの返事がなかった。互いに無言で、汗が滲むより前にドアが開いたことにホッとして、彼に腕を引かれるままついていく。そこは地下のようで薄暗い。そうして案内された場所には軽自動車なんかではなく、排気量の大きそうな黒い乗用車が停まっていた。

「ほんとに車だ」
「嘘だと思ってたのかよ」
「い、いえ! 違うけど……時々、晋助くんが年下なのかわからなくなるときがあって」
「俺はななこが年上に思えてんぜ」
「え、そう思うとこあります…?」

 スマートキーらしく、晋助くんがドアの持ち手に触れるだけでピッと音が鳴り、ライトが点滅して鍵が開いたようだった。
 晋助くんが何か返事をくれたような気がしたけど、肩を押されたあとに彼が運転席へ乗り込んでしまっては自分も慌てて助手席に乗り込む。

 例え晋助くんと一緒だろうと、場所が変われば緊張した。静かにエンジンがかかって、点灯するナビの液晶画面に眩しさを感じる。
 運転席側をちらりと見ると、シートの背もたれにしっかりと背中を預けている姿があった。

「これがなきゃ朝までお前の家にいれねェし、電車も止まってるような時間に合鍵を返しにも行かなかっただろうな」

 そう言われると確かに晋助くんがわたしの家に泊まって、なおかつ朝までいるようになったのは8月の終わりぐらいからだったような気がする。
 合鍵と聞いて紐付くのも自分が熱を出したあの日、晋助くんがやってきてくれたときのことだ。

「バイト先にもこれで迎えに行こうかと思ったこともあったが……どうも、お前と歩くのは嫌いじゃないらしくてな」
「どういうことですか?」
「こっちの様子伺いながら手ェ握ってくるようになったのを、やめちまうのももったいねェ気がしてなァ」

 喉の奥を鳴らすような笑い声が聞こえたのと、自分の顔が一瞬で熱くなったのはほとんど同時だったように思う。

 
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