全てを無に帰する優しさを 1/1 

 離れていく、坂田くんの大きな手は小刻みに震えていた。なのに向けられる瞳は真っ直ぐで、確かな思いを宿している。
 これを振り払えと、晋助くんは言っていた。わたしもそうするべきだと思っていた、はずなのに。



 友美に背を向けた坂田くんと食堂へ向かった。だけどこんな状況で食欲が湧くはずもなく、持参していたお茶を飲んでから彼に告げた。ごめんね、と。わたし用事があるんだった、と。
 漂う空気を受け入れることは到底できなくて、逃げ出したくて、でも坂田くんは震える手を伸ばしてくる。

「また、明日な」

 わたしの手首を掴んでから、するすると移動する手のひらに指先をぎゅっと握りしめられる。頷いて見せるのが精一杯だった。

「また連絡すっから」

 きっと笑みを返せてるはず。そうであってほしいと願う。叶っていないかもしれないけれど。


………


「…だからお前は、」

 バカな女なんだよ。そう続けた晋助くんは、珍しく煙草を咥えた。この家で彼が喫煙することは滅多にない。一度見たきりだった。晋助くんが初めて泊まっていったあと、何も考えずに鍵を投げて渡してしまったから怒られると思った、あの時だけ。
 くつくつと喉を鳴らしている。口元を歪ませて、綺麗な笑みを浮かべている。だけど向けられる瞳は、坂田くんのそれとは全くの正反対だった。



 もつれる足でアパートに帰って、震える手で部屋のドアを開けたら、小さな机のすぐ側であぐらをかく相変わらずの姿があった。振り返る晋助くんは、わたしの顔を見るなり目を見開いている。それもそうだろう。彼がいるのを確認した途端、目頭が熱くなったからだ。
 講義後、バイトがあったのにも関わらず、あながち嘘ではない体調不良を理由にして休みをもらってまで晋助くんを探した。温もりを求めた。だけどいつもみたいに涙を拭ってくれない。抱きしめてもらえない。

「晋助くん…?」

 伸ばしかけた手を思わず引っ込めてしまう。いつだったか、こんな冷たい目を見たことがある。その時は自分に向けられていなかった瞳に、今は真っ直ぐ見つめられ、わたしは体を強張らせた。

「今度はなんだよ」

 互いの手が届かない距離で向かい合い、嫌というほど注がれる視線に耐える。
 次第に口内が乾いていく。カラカラの喉の奥から音を引っ張り出して、震える唇で言葉にしたけれど、上手く文章を作れない。

 坂田くんが彼女と別れた。坂田くんに告白された。返事はさせてもらえなかった。向けられる、感情を押し秘めた瞳に何も言えなくなったから。わたしは、彼の震える手を振り払えなかった。振られるのは簡単だったけど、自分から突き放すのはとても辛かったからだ。
 そんなことを必死になって伝えた。嘘はつかない。今までずっと全てを見られ、知られ、打ち明けてきた。こんな、自分の感情に優柔不断な奴を晋助くんはいつも受け入れてくれたから、そのいつも通りを繰り返す。
 冷たいように見えて温かい手のひらが頬を撫でてくれることを、華奢に見えて筋肉質な腕が抱きしめてくれることを、口の端を不器用に吊り上げる唇で優しいキスをしてくれることを、望んで。

 晋助くんはくつくつ喉を鳴らす。ただそれだけ。やおらに動いた手は煙草に火をつけ、次は口から煙を吐き出すために煙草をつまむけど、こちらに伸ばされる気配はない。

「だからお前はバカな女なんだよ」

 晋助くんの目線は下へおろされている。何か考えているように見えたし、何も考えていないようにも見えた。わたしはもう全てを吐き出したあとだったから黙るしかなく、彼の伏せられている目を見つめた。
 あえて与えられる無言の時間はどうしていいのかわからず、苦痛に感じるほどだった。晋助くんの名前を呼ぶのもはばかられるほど、彼から醸し出されている雰囲気は重い。
 まるで出会った当初のような、

「…わかった」

 ぽつりと呟かれた言葉を必死に拾ったけど、晋助くんがどういう意図でそれを放ったのかこちらはわからない。

「嫌というほど理解してきたつもりだったが、そうでもなかったらしい」

 晋助くんはゆっくりと立ち上がる。わたしはそれをただ目で追うことしかできない。

「だが今ようやくわかった。テメーがそうなる理由が」

 こちらを見下ろす目は冷たく、もう口の端を持ち上げることすらない。ひと吸いした煙をゆっくりと吐き出して、少しの間を持ってから、晋助くんの唇はゆっくりと言葉を紡ぐ。

「もう終いだ」
「…え?」
「ここにも来ねえ」

 しっかりと耳では聞こえているのに、すぐに理解できなかった。わたしは、ただ息を吐いたような返事をしてしまう。

 晋助くんはゆったりとした歩調でわたしの横を通り過ぎていく。自然とそれを振り返ったけど、彼はこちらに背を向けたまま。リビングと玄関を繋ぐ廊下のドアを開け放し、その先へ進んでいくのがスローモーションに見える。背中が小さくなっていき、ある扉の前でかがんだ。きっと靴を履いているのだ。

「…んで」

 喉に声が張り付く。ぴくりとも反応しない相手に、自分の声が届いていないことは明らかだ。

「なんで…どうして…?」

 意味がわからない。それが正直なところだった。だって晋助くんは自分から手を振りほどかないって、だからわたしにそうするなって、悲しそうな目をして言った。それを信じていた。だからわたしは彼を求めた。



 ーーー晋助くんは振り返らない。扉を開けた隙間に体を滑り込ませていく。ガチャン、と閉まる寸でまで彼は顔を背けることすらしなかった。ただ前を向いていた。

 わたしの全てを置き去りにして。

 
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