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 あの場からの逃げたさに用事があると告げたが、実は嘘だった。自宅の最寄駅で下車してから時間の潰し方を考える。
 あいにく、バイトは今日休みである。大学近くでウロウロして誰かに鉢合わせするのも嫌だったのでここまできたが、特にやることもない。家に帰ったら家事なりなんなりやることは見つけられると思う。だけどそんなことをする気にはならなかったので、結局は家の近所をしばらく散歩した。
 少しずつ太陽の位置が変わっていくのを見ながらぼうっとして歩き続ける。何気ないタイミングで時間を確認すると、ちょうど午後3時になるところだった。疲れてきたし、何も起きない散歩に飽きた。ならば買い出しにでも行くかと、くるりと踵を返す。
 今日は自宅近くのスーパーの、夕方から始まる特売日だ。それにちょっと早く乗り込むと思えば良い。確かお肉が安いはず、と目星をつけながら目当ての場所に繰り出した。





「買いすぎたー…」

 両手にパンパンのビニール袋を提げて帰路を行くのだけど、思わず独り言を呟いてしまうくらい重すぎて、いまいち歩が進まない。
 自分で言うのもなんだが、自炊にはかなり力を入れている。安いときに買い溜めて、冷凍保存したり常備菜を作ったりしているのだが…今日はちょっと買い込みすぎた。こんなとき彼氏でもいればいいのだが現実はそう甘くはない。
 あっちへふらふら、こっちへふらふら…荷物に惑わされながら懸命に歩く。ようやく我が城へとたどり着いた頃には息が切れていた。

 自分の部屋は2階、その奥の角部屋だ。錆びてきている階段は、スニーカーであっても登るときによく音が響く。
 カン、カン、カン、と甲高い音を響かせて最上段まで上がりきる。部屋の方向へ向き直ると、誰かが奥のほうで座り込んでいるのを発見した。不審に思い、その場に立ち止まる。

 わたしの住んでいるアパートは小規模で、一階と二階にそれぞれ部屋がふたつずつ、つまり四世帯しか入居できない。なので階段を上がりきった位置から、廊下の突き当りまでの距離はそう遠くない。だからその人が座り込んでいるのが、自分が住む部屋のドアの前だとすぐにわかった。
 その人を凝視するも少し距離があり横側から見ているせいで、肩にかかりそうな長さの黒髪に服装は上が白、下が黒ぐらいしか判別できない。

 人がいるなんて思いもしなかった。どうしていいかわからず、ただ見つめることしかできないでいると、問題の人物が垂れていた首を上げてこちらを向く。

「…よォ、遅かったじゃねェか」

 そう遠くない距離だから相手から放たれた言葉をよく聞き取ることができた。声は低く、男性であった。そして顔をこちらに向けられたことで確認できた、左目につけられた眼帯に大層見覚えがあった。
 予想外の人物の出現に、心臓がどきりと大きく鳴る。ゆっくりと立ち上がったその人は、ドアに半身を預けてじっと視線を寄越してくる。それだけで自分の体はがっちり固まった。

「な、何ですか?」
「やけに冷てえな。裸の付き合いしたってェのに」
「はっ、はあ!? ちょっと! こんなとこでそんなこと言わないでくださいよ!」

 にやりと口角を上げてとんでもないことを言うものだから、焦って周りを確認する。誰もいないことに安堵の息を吐きつつ、もう過去の思い出と化しかけていた彼への対応を考える。

「…で、本当にどうしたんですか? その…約束は果たしましたよね?」
「1回きりとは言ってねえが?」
「な、なんですと!?」
「うるせえ…とりあえず中入れろ、ケツが痛え」

 有無を言わせない口調だった。額に変な汗をかく。買い物袋は容赦なく手のひらに食い込むし、早く部屋の中に入りたいけど…開けたら当然一緒に入ってくるだろう。
 少し躊躇ったものの足を踏み出す。また、膝が震えた。正直なところ帰ってほしかった。だけど彼を見ていると先日拝見した、強烈な右ストレートが自然と思い出される。なんの迷いもなく、凄むヤンキーの顎に打ち込まれて綺麗に決まったあの拳はこの人の物だ。結局、拒みきれずに中へと招き入れる。

 靴を脱いで廊下を真っ直ぐ行き、先日のようにちゃぶ台の側に腰を下ろした人はゆっくりとこちらを見やった。視線が交わると最後、こちらには拒否権などないように思えてくる。

「また麦茶でも勧めてくる気かよ」
「…飲まないものは勧めません」
「あっそ」

 ガサガサと袋を揺らして冷蔵庫の前へ立つ。買ったものをそれぞれの場所へと収納していく。
 あ、お肉すぐに冷凍しないと。晩御飯の準備もしないとなあ。

「なァ、それ今する必要あんのかよ」

 現実を直視したくなかったのか、頭は関係のないことばかりを考える。なのに背後から飛んでくる言葉は逃避行を許してくれない。
 顔だけで振り返ると、彼は笑みを浮かべていた。何回か見た笑い方はいつもこうだ。目尻は下がっていないのに、唇の端だけを持ち上げて喉の奥を鳴らす。笑うのが下手なのか、実はさして楽しくもないのか。

「こっちこい」
「…でもこの前のお礼はもう、」
「相手はふたり、いたよなァ」

 だから2回だとでも言いたいのだろうか。ククッと喉の奥が鳴るのが聞こえる。返事のしようがなくて、ただフローリングを見つめる。
 ピーッ。冷蔵庫のドアを開け放していたせいで早く閉めろと怒られてしまった、その音で我に返る。冷蔵物を全て仕舞って、熱を放つ機械に手をついたままふう、と息を吐く。

「…もう、これで最後ですからね」
「さみしいこと、言うなよ」
「だって、こんなの」

 言葉を紡ごうとしたら、腕を引かれた。いつの間にか彼はすぐ近くに立っていて、その細い腕は一体どうなっているのか、強い力でフローリングの上へ押し倒される。

「こんなの?」
「…セフレ、みたい」
「…違えねえ」

 短く笑って、彼はわたしの首筋に吸い付いた。

 
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