3/3 

「厄介なのに巻き込むんじゃあねェよ」

 やけに落ち着いた声色で、左目に眼帯をした男性は言った。彼は、自分の腕から丁寧にわたしの指を剥がし、ただこちらを見下ろす。背はそう高くないのに、呼吸がしづらくなるような圧迫感を覚えた。鋭い目つきの奥はとても冷たいように感じて、ぞくりと背筋に寒いものが走る。

「テメーぶっ殺す!」

 息荒く叫ぶ声の方向を見ると、さっきまでわたしの肩を抱いていた男性が鼻あたりを押さえていた。指の間から垂れる赤い液体。
 いまいち事態が理解できない自分はこの出来事の当事者のはずだが、気分は第三者だった。状況を受け入れたくないのもある。それでも身の安全を確保するには思考を巡らさなければならない。
 走って逃げる? それとも周りの人に助けを求める? 学生の頃は陸上部だったが、体格の全然違う男女差を、最近は全然走っていない自分の脚力で埋められるだろうか…いや、自信は全くない。それならばと周りを見回すも皆は遥か遠くに距離を取っていた。
 つまり、頼れるところはひとつしかない。

「お、お願いします…助けてください」

 眼帯をした男性の腕を再度掴み、離すまいと力を込めながら頼み込んだ。「は?」と短く、呟くように言った表情は心底面倒臭そうなもの。

「連れてかれそうになって」
「…なんでそんなメンドくせえこと」

 表情通りのセリフを言いながら、すっと隻眼を細めている。黒い瞳はこちらを見ておらず、今もギャンギャン吠えている男性を捉えているようだった。

「その女置いていけ! そうしたら勘弁してやる」

 駅のロータリーに響く怒声に、わたしは首を勢いよく横に振った。それだけはどうしても回避したい。だから立ち去らないでほしい。そんな自分の気持ちを伝えるよう、男性の腕を掴む指先に力を籠めたなら、彼はにやりと口角を持ち上げた。

「…助けたらお前はどうする」
「どうするって…お礼します、なんでもします」
「へェ、なんでも、ね」

 持ってろ、と乱暴に手渡されたのは黒い長財布に液晶の割れたアイフォンだった。ぐいっと押しのけられてよろけたそのとき、ようやく男性の全貌を見た。自分と、額に青筋浮かべた男性とを遮る背中はとても華奢だった。
 …もしかして、助けを求める人間違えたんじゃ? そう思った次の瞬間、本気の暴力というものを目の当たりにすることになる。





「ありがとうございました…」

 少し前を歩く男性を上手く見れない。理由は簡単だった。彼は、対面に立っていた体格の良い男性を文字通りワンパンで地面に沈めてしまったからだ。そして車から降りてきたもうひとりもあっという間に倒してしまう。
 息を切らすことなくその場を片付けて、振り返り様にこちらへ向けられた目つきの鋭さは今まで見たこともない。思わず肩を震わせてしまったが、あんなもの向けられたら誰だってそうなるはず。

「行くぞ」

 背を向けられるのに着いていかなればと頭で思ったけど、今度は膝が震えた。感謝の気持ちはもちろん浮かんだけど、それと並行して、むしろそれよりも大きく、恐怖心が自分の中を占拠する。

「なんでもするんだよなァ?」
「え、あ、はい…」

 やっぱり頼む相手を間違えたような気がする。だけどあの時はとにかく必死で、目も合わせてくれる人すらいなかった。選んでいられなかったのだ。もしこの人以外だったなら返り討ちにあっていたかもしれない。……うん、選択は正しかった。そういうことにしておこう。
 頭の中で自分を慰めていたら会話が途切れた。切り出す話題もないので同じように口を閉ざしていたら、男性が唐突に振り返った。

「お前、家は」
「…すみません、反対方向です」
「実家か」
「いえ、ひとり暮らしです」
「なら、そこでいい」
「はい…?」

 よくわからないが、とりあえずわたしの家に行くことを所望しておられるようだ。先を歩いて案内をする。

「わたしの家なにもないですけど…」
「別に興味ねえ」
「あ、なんかすみません…」

 また会話が途切れ、特に話題もなかったため無言のまま歩く。正直なところ、後ろを歩くその人は関わったことがないタイプだった。そのせいか危機を脱出した今も緊張が緩むことなく、喉も唇もパサパサだった。
 家に来て何する気だろう…飯食わせろ、とか? 冷蔵庫になんか入ってたっけ。え? そんなことある? ああ、もう、わからない! ーーーと、頭の中をぐるぐる回しながらでも、歩いていたなら家に着いてしまう。
 招き入れた室内で彼は一言。

「何もねえな」

 遠慮なく上り込むその人は先を行き、小さな机の前でどっかりと座り込んだ。廊下とリビングを隔てるドアを閉めてから、見慣れない光景をしばらく見つめる。

「…あの、お茶、飲みます?」
「は?」

 はたと我に返って、招かれざる客に最低限の気を利かせたつもりだった。だけど相手からは素っ頓狂な声が上がる。
 わたしは、そのときにはもうすでに冷蔵庫に近づいて、ペットボトルに移してあった麦茶を取り出したところだった。茶色い液体の入った容器を見せて、気づく。呆れた顔を向けられていることに。

「これから何をすると思う?」
「何って…なにするんですか?」
「…ククッ」

 ワンテンポ遅れて、男性は喉の奥を鳴らして笑った。笑む彼はあぐらをかいて膝の上に片肘を乗せていたが、ゆらりと後方に揺れた。お尻からまだ後ろの位置へ両手をついて、上体を後方に倒している。少し顎を持ち上げて、天井をぼんやりと眺めているように見えた。

「言わねえとわからねえってか」
「えーと…よくわかりませんけど、わたしどうしたら…」

 返事は来ない。しばらく無言が続き、とりあえず男性へと近寄った。ちゃぶ台を挟んだ位置に腰を下ろしてしまったこと、なんとなく正座してしまったことは、彼から漂う雰囲気から考えてもはや自然の摂理だと思う。
 緊迫した空気に喉が渇いて仕方ない。目の前の人のために出した麦茶だったけど、手をつける気配もないので自分で飲んだ。冷たい麦茶が喉を潤してくれる。横文字の、よくわからないオシャレなティーよりこっちのほうが落ち着くなあと感じながら、さらに容器を傾ける。

「…助けてやった代わりに体貸せ」
「え、なんですか?」

 間抜けにもごくごくと喉を鳴らしてしまっていたから、いまいち聞き取れなかった。だからキャップを閉めてから聞き直すと、男性はまた喉の奥を鳴らす。

「ヤらせろ」
「…やる?」
「セックス、させろっつってんだよ」

 思いも寄らぬ回答に、吸った息をうまく吐き出すことができなかった。

 
back
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -