仕事を終えて家に戻ったら、ちょうど玄関で靴を磨いていた母に『アンタの部屋で休憩してるから』と言われた。 ―なんのこっちゃい。 母の意図がわかりかねたが、傘立ての横に立てかけられた使い込まれたラケットバッグが視界に入った途端、どこか感慨深く、どきどきわくわくした、少し懐かしい記憶が呼び起こされて、不思議な気持ちになった。 視線を下げればスニーカーがきちんと両足揃えて並べられており、デザインとカラーリングが何度か見たことのあるもの。 ATOBE SPORTSのロゴに、白地ベースにオレンジの靴紐、ワンポイントのマーク………は確か、ATOBE SPORTSがスポンサーをしているプロテニス選手のブランドラインだったような。 「え、来てんの?!」 「2時間前くらいに急に来てね。まだお家に帰ってないって言うから。先に親に顔見せなさいって言ったんだけど」 母はお隣に一応電話を入れたらしいが、クリーニング屋ののほほんとした奥様は『あらあら、いつ日本に帰ってきたのかしらねぇ。ごめんなさいね、お邪魔しちゃって』と朗らかに笑ったそうな。 昔からの馴染みの仲なためか、息子が気が済むまで遊ばせてもらっていいかとお願いされれば電気屋の奥様も『岳人ももうすぐ帰ってくるから』と快諾した。 「えー?でもアイツ、先週まで試合だったじゃん」 「終わったから一時帰国したんでしょ」 「なんも連絡きてねーのに」 「聞いてきなさい。あんたのベッドでゴロゴロしてるから」 「あ、そっか」 夕飯はどうするか聞いてきた母に『どうするって?』と問い返せば、2時間前に来訪した客人と一緒に出かけるか、それとも家がいいなら軽く作ってもよいが嫌なら出前、の三択を提示された。 ちなみに父は所用で出かけており、母は早めの夕飯を済ませ、姉は一人暮らし中、弟は部活の仲間と食べてくるようで、未定なのは今帰宅したばかりの岳人だけだという。 とりあえず部屋に行ってみて幼馴染に聞いてみる!と階段を駆け上がり、自室のドアを勢いよく開けたらベッドにゴロゴロ……ではなく、ベッドを背もたれにテニス雑誌をしげしげ眺める金髪がいた。 「おい」 「……」 「おいこら、急にびっくりすんだろ」 「…あー、がくと」 「帰ってくるなら連絡寄越せよ」 「おかえりー」 へにゃっとした笑顔は昔から変わらない。 目の前でホゲホゲしている職業不明なこのふわふわ金髪は、トップ10入りも近いとテニス界で注目の若手プレーヤー。 いくつかの大会で優勝も飾っており、特にクレーコートで抜群の強さを発揮するこの男はボレー含むネットプレーで観客を沸かせ、可愛らしいルックスも相まってかファンも多く、柔らかい笑顔で老若男女問わず人気の高い選手でもある。 都内有数の進学校・氷帝学園においては珍しい、スポーツ部門で活躍する卒業生はいまや日本テニス界に燦々と輝く星の一つである。 年に10ヶ月近くツアーでまわっているため直接会うことはめっきり減ったが、たまにこうしてフラっとやってきては『がくと、おかえりー』と向日家のリビングでゴロゴロしていたり、岳人の部屋で爆睡していることもあるので、そこまで驚きはしないもののさすがに試合を終えたばかりというのは初だ。 特に、試合中の怪我で途中棄権し、治療に専念しているであろう今は。 「お前、なんで日本にいんの?」 「えー?」 「怪我。大丈夫なのかよ」 「あー、だいじょーぶだいじょーぶ。ちょっと捻っただけだC〜」 「試合。棄権するほどなんだろ?」 グランドスラムの一つ、アメリカで行われる大会。 アメリカが拠点の彼にとってみれば一番楽しみにしていた大会で、ランキング上位のためシードも与えられており準備万全で臨んだ大会だった。 優勝候補はハードコートが得意なランキング上位者で、同じアメリカを拠点とする越前リョーマ。 ブロックが正反対なため互いにぶつかるのは決勝にあがったときのみ。相手は去年もファイナリストかつ今年もベスト4は確実視されていて順調に勝ち上がってきたが、予想外……といっていいのか、ランキング10位付近をうろうろしている気分屋があれよあれよと勝ち進み、気づけばベスト4に名を連ねていた。 ―こうなれば決勝で戦うしかない! 『俺、勝つから。ジローさんも勝ってよ?決勝、やろーよ』 『おー、ぜってぇ勝つし!んで決勝もかーつ!!』 『優勝は俺だけどね』 そんな会話を交わした翌日に行われた準決勝。 意気揚々と試合に挑んだ両者の結果は対極的なもので、第一試合の越前選手は圧倒的な強さを見せつけ3-0でストレート勝ちを収めたが、続いて行われた彼の試合は1セット目5-2で勝っていたものの第8ゲームで流れがガラっと変わってしまった。 ラインぎりぎりの際どいところに打たれたショットに何とか追いつくも、無理な体制で打ってしまったからか重心が変なところにかかってしまい、ふんばりが効かずに負荷がかかった結果ひねってしまった。 「だいじょーぶだったんだよ?なのにさー」 「映像見てても、痛そうだったけど」 「へーきだよ、あんくらい」 「足引きずってただろ。棄権して正解だ」 「ちぇ。もっとできたよ。勝てば、決勝で戦えたのに」 「越前が今年も優勝で、連覇かー」 今年のアーサー・アッシュ・スタジアムの勝者は昨年に引き続き、連覇を果たしたアメリカがホームグラウンドの越前リョーマ。 プロデビューしランキングを上り詰めてからはトップ5から落ちたことがなく、出る大会はたいがいファイナルまで進むテニス界のスーパースターだ。 そんな彼に今年、クレーコートで土をつけたのが、先週の大会を棄権したばかりのほわほわ金髪だった。 ハードコートではそこまで目立った成績を残してないからか、ベスト4まで勝ち上がるのは本人も予想外だったようだが、いよいよ準決勝ともなると『クレーで越前リョーマに勝った選手』へも注目が集まり、クレー大会再びとばかりに両者の決勝を予想・期待する声で溢れた先週末。 足の痛みを訴えた当初は、まだやれると主張したようだがコーチ陣は揃って難色を示し、最終的には試合を見に来ていた筆頭スポンサー様の『本当にやれるのか?真面目に考えろ。この先まだ長い。続けられるかどうか自分でわかるだろう?決勝へ進みたい気持ちはわかるが、悪化させたら意味ねーんだぞ。お前もプロだろ。このゲームはやめろ、棄権だ』とのコートサイドからかけられた言葉にベンチで喉を潤していた手が止まり、振り返った先でコーチが首をふって棄権せよとの指示してきた。 最終的に判断したのは芥川本人だが、当初足の具合をはかりかね迷っていたコーチがスポンサー様の一声で即答で『棄権』を示唆してきたことに納得がいかないようで『フツーそこは俺に聞いてくるモンじゃないの?』とぷんぷんしている。 「しょーがねーじゃん。アイツが正しいんだし」 「ただのスポンサーじゃん。なんで口出してくんだよ」 「おー、本人に言ってやれよ」 「ぶー!むかつくから顔見たくない」 「お前の筆頭スポンサー様だろーが。愛想よくしとけ」 「跡部のばーかばーかばーか」 「あのなぁ。跡部が判断間違えたことあったか?」 「……」 「お前のために、最善なことしかやってきてないだろ、アイツは」 「…わかってるけど!でも、それはそれ、これはこれ!」 やれやれ。 (あれは棄権するしかないって、コイツもわかってはいるんだろうけど…) それでもプレーを続けたかった、決勝に進みたかった、越前と戦いたかった。 その時は足の痛みよりも、続けたいという気持ちが勝ったため本人は葛藤だったのだろうが、より冷静な旧知のスポンサー様とコーチ陣によって『棄権』という残念な結果で終わってしまった。けれども周りもメディアもファンも、後日発表された診断結果に『棄権で正解』の見解を一致させ、プレイヤー本人のみが理解はしつつもぶーぶー言っているだけらしい。 いや、正しくは『スポンサー様』に対してのみ、だろうか。 「お前、リハビリ日本ですんの?」 「べっつにー、未定」 「未定って」 「とりあえず来月まで全部欠場することになったからさー」 「ほらみろ、どこが軽くひねっただ」 「どっちみち全米後は一旦日本戻って、そのまま次の大会行く予定だったからいーもん」 「ちゃんと周りに言ってから帰国したのかよ?」 「チームには言ったもん。ゆっくり休んできていいって」 「で、跡部には?」 「なんで跡部に言わなきゃなんねーんだよ」 「おい、住まいも全部提供してもらってるのに、何言ってんだ」 「跡部が勝手にマンション用意しただけだC〜」 「報われねぇな、アイツも」 正しくは、跡部グループの御曹司がアメリカ西海岸に所有しているマンションの最上階で暮らしている、とでも言おうか。 周りは『中学時代から仲の良い友達同士。御曹司の部屋に転がり込んでいる』だの『御曹司の寵愛を受けている』だの、互いに世界を飛び回っているからか『世界中に住まいを保有している御曹司の家を、各地遠征のたびに借りている』と好き勝手騒いでいるようだが、実際はそのどれもが少しずつ当たっている。 渡米当初はマンションを借りようとしていたものの、面倒くさくなりホテル暮らしでいいと匙を投げた芥川に『ちょっと待て。俺の所から通え』とマンション同居を打診してくれて、ラッキーと転がりこんだのが始まり。 ・どこまで仲良しなんだろうねー、二人 ・跡部もいつまでジローの世話やいてんだか ・ジロー、いい加減に独り立ちしろよ ・跡部はジローを手放したくないねんな ・生活能力に欠けてるので、跡部さんが面倒みるしか無いんじゃないですか? ・生活面までケアするなんて、跡部さん、流石です! 同居を始めた二人に、元氷帝学園の面々はこのような言葉をかけたようだが。 「どうせ跡部に迎えにきてもらうんだから、とっとと連絡しろよ」 「迎えに来てもらうー?なんだよそれ」 「お前らいっつもそうだろうが。今に現れるぞ、きっと」 「跡部忙しーもん。仕事で夜遅いし、ツアー中はぜんっぜん会えないし」 「ほー。んじゃ今はツアー中断中だから一緒じゃねーのかよ」 「あっちは仕事だってば。今頃ドバイだもん」 「そーか。寂しくて日本戻ってきたのか」 「!!」 「んじゃどーする?」 「…なにが?」 「メシ。俺はらへった。お前、なんか食った?」 「空港から直行したから何も食ってない」 「どっか行く?何食いたい?」 「岳人は?」 「久しぶりの日本だろ?お前の行きたいとこでいいよ」 「岳人の行きたいとこでいい」 「そうか?じゃあイタリアン。ピザ食いたい」 「ん。もう出る?」 「7時だしなー。どこいく?トラットリアAT?」 麻布の人気イタリアンのお店を告げると、眉を寄せて『遠い、却下』と跳ね除けられたため、続けざまにAT-barrelや欧州居酒屋跡部亭の名をあげれば『跡部系列の店は全部却下ー!!』と両手を交差させ大きくバッテンで拒否してきた。 「お前、トラットリアAT好きじゃん。AT-barrelのパスタも大好きだし、欧州居酒屋のティラミスも帰国したら絶対食いにいくし。どれも跡部グループの店だけど、レストランに罪はねぇだろ」 「跡部の名前はしばらく聞きたくないので別の店にしまーす」 「あっそ…。ピザあるところにしろよ?」 「氷帝の近くの焼き釜あるところにしよ」 「あぁ、あそこな。今日金曜だし、混んでるかもな。電話してみっか」 携帯電話を取り出し、メモリーから最近ご無沙汰なお店を探してスクロールし、ようやく見つかり『通話』を押そうとした瞬間ドアがバンと開き、これまた久しぶりの声が岳人の部屋に響いた。 「その必要はねぇ」 「「!!」」 ドアノブから手を離し、優雅なしぐさで前髪をかきあげた主は、より凄みを増した美貌と強力な目力で圧倒的な存在感を放つ王様。 幼馴染に続きサプライズで現れた男は、床に座るふわふわ金髪をじっと見つめて視線を離さない。 傍から見れば睨んでいるようにも感じられるが、ドバイにいるはずの忙しい男が仕事とまったく関係ないであろう向日家にやってきたことを思えば跡部にとって芥川の帰国はイレギュラーだったのだろう。 相変わらずセンスの良いスーツを見にまといスマートな装いながらも、少し髪が乱れているところが彼の慌てぶりを表している。 「明日帰るぞ、ジロー」 「……」 「リハビリのスケジュール、プログラムもちゃんと組んである。センターに戻れ」 「……」 「ジロー」 「なー跡部。ジローどうせ来週末まで日本の予定だったんだろ?ちょっとくらいいーんじゃねぇの?」 いきなり現れたスポンサー様に、芥川の両眼はびっくりしすぎてまん丸に開きっぱなしだ。 一瞬、寂しそうに、どこか嬉しそうに表情が綻んだと思ったら、頭ごなしの『戻れ』に機嫌を損ねたのか、プイっと横を向いて『空耳が聞こえるC〜』と無視を決め込んだ。 「がくと、ごはんいこ?」 「おい、ジロー」 「あー聞こえない、聞こえないー、おなかすいた。ほら、岳人」 「別にいいけどよ。跡部も行くのか?」 「何言ってんの、岳人。オレら二人だけだし〜」 「…なぁ跡部、どーすんの?てかどーしたんだよ、急に。お前ドバイじゃねぇの?」 芥川に透明人間扱いされている元同級生へどうしたものかと問いかける向日だったが、王様は『チッ』たる舌打ちとともに芥川を睨みつけ、表に車を待機させているから乗るようにと踵を返して出て行った。 どうやらレストランを用意しているらしい。 「ほらジロー、行くぞ」 「……」 「タダメシ食いにいこーぜ?」 「…イタリアン、いくんでしょ?」 「どうせ跡部のことだから、トラットリアATかAT-barrelで席取っててくれてんだろ」 「……跡部のばーかばーかばーか」 「はいはい」 渋る幼馴染を立ち上がらせ、背中を押して部屋から出した。 何だかんだいいながら仲直りはするのだろうが、まだ実家に顔を出していないというので夕食後は商店街に戻ってくるだろう。 芥川へ聞いても『岳人んち泊まるからラケットバッグ置いてっていい?』だそうで、即座にアメリカへ帰る気は無いようだ。 向日家ではなく実家で寝るよう注意したら、逆に芥川家に泊まってくれとお願いされたので『仕方ねーな』と頷いて玄関を出た。 (亮も呼んでやっかなー、久々に) どちらの家で寝泊りするにしろ、芥川は今晩だけでも幼馴染のそばで過ごしたいのだろう。 王様がついてくるかは不明だけれど、母校氷帝学園で教鞭をふるうもう一人の幼馴染、宍戸先生に連絡しておこうと携帯で短文メッセージを送っておいた。 そして車内にて。 「だいたいさー、勝手なんだっつーの」 「何が勝手だ。お前こそフラフラするんじゃねぇ」 「はー?ちゃんとコーチにも、チーム皆に言ってから出てきたんだC!」 「聞いてねぇ」 「跡部いなかったじゃん」 「メールでも電話でもどうとでも連絡とれるだろーが」 「知りませーん、ドバイに行っていた人のことなんて知りませんねー」 「てめぇ!」 「うるさいしー」 「誰のためにっ…」 「来週まで日本にいるもんねーだ」 「チッ……」 「ドバイ帰れば?仕事終わってないんでしょ?なんで日本にいるんだよ」 「ドバイの案件はこれで終わりだ」 「は?一ヶ月くらいかかるって言ってたっしょ」 「終わらせたんだよ」 「来月中旬までかかるんじゃないの?」 「誰かさんが怪我でしばらく遠征が無いから、それまでは在宅で仕事できるよう調整したんだろーが」 「へ?」 「後は本社で指示出せば問題ないところまでほぼ終わらせて、センターに連絡してみれば『ジローは日本に行ってる』だと?」 「……」 「センターの連中はお前があまりに日本帰りたいといって聞かないから、仕方なしに送り出したんだってな?」 「仕方なしじゃねーし。ちゃんとコーチにもOKもらって帰ってきたんだもん」 「俺に無連絡とはどういうことだ」 「あ、跡部だって、ドバイが早く終わるなんて、一言も教えてくんなかった」 「仕方ねぇだろ」 「何がだよ!早く帰ってきて、しばらくマンションにいるってわかってれば…っ」 「お前の準決勝観戦した時はまだ目処がついてなかった。その後またドバイに行って、ようやく一昨日終わったんだ」 「!!」 「飛行機乗る寸前にお前が日本にいると聞かされて、そこから日本行きのエミレーツ便に切り替えて……てめぇ、俺様に手間かけさせやがって」 「跡部に日本来てなんて言ってないC!」 「あんだと?」 「なんだよ!」 ギャンギャンと言い争いを始める二人の間に座る岳人は、ケンカなのかノロけあっているのかの判断つきかねるまま、交わされる会話を黙って聞いていた。 しかしそれももう限界。 「お前らいいかげんにしろー!!」 何故、一言『お前と一緒にいたいから仕事を終えたし、会いたいから日本に追いかけてきた』と言えないのか。 何故、一言『一人が寂しかったから日本にきたけど、一緒に過ごすために頑張ってくれて嬉しい』と言えないのか。 言葉足らずな右隣の跡部、嬉しいくせに意地を張ってしまう左隣の芥川。 素直になれない双方に、レストランまでの道中懇々と説教した向日岳人だったが、レストランに着くころにはすっかりいつもの二人に戻り、バカップル並にイチャイチャしだし居心地の悪さを感じた。 氷帝学園での仕事を終えた宍戸先生がレストランに先に到着していたことがせめてもの救いといえよう。 (終わり) >>目次 |