四匹目



その日は朝から五月蝿かった。
昨日の帰り私が彼にさらわれていったせいで知り合いなのか、どういう関係なのか、紹介しろがステレオのように四方八方から投げ掛けられた。
しかしまあ残念ながら私は彼の名前すら知らないのだ。紹介のしようがない。
擬態については話さずに図書室前でぶつかっただけで名前すら知らないと言ったら友達に呆れられた。あんなに有名なのに知らないの!?だそうだ。有名なことすら初めて知った。
そう言うと友達は呆れ返ったように彼の名前は忍足謙也と言い、テニス部のレギュラーで浪速のスピードスターなのだと教えてくれた。スピードスターってなに。

そうこうしている内に一時間目が始まって教科書を引っ張りだそうと机に手を入れたらノートをちぎって丸めたようなくしゃくしゃの紙屑が出て来た。
え、なにこれ嫌がらせ?さっきまで名前も知らなかった人に呼び出しくらっただけで?早くない?
先生に見付からないようにこっそりとそれを開くと走り書きみたいな読みづらい字で「放課後屋上!!!」と書いてあった。勢いつけすぎだろう。





行きたくないと言わんばかりに進まない足をなんとか動かして屋上に進む。ドアノブに手をかけてはぁと息を吐いた。行かなかったらそれはそれでめんどくさいことになりそうだから来たけど今すぐ帰ってしまいたい。
話し合いで済むかな。殴られたらどうしよう。
重い気持ちでドアを開ければ私は口をぽかんとしてしまった。

「お、やっと来た」

お 前 か よ ! !
屋上に座ってお気楽に手をひらひらと振っているのは例の忍足謙也だった。私の緊張感とため息返せよ。

「…なに?」

「いやぁ話しとうて」

「擬態の?」

「わかっとるやん!」

ならはよう!とバシバシと屋上のコンクリの床を叩く。なんかもうこの人めんどくさい。チャッチャと説明したら関わらないでくれるだろうか。

「で?で?擬態ってなに?」

「…その前に、忍足くんは将来の夢ってある?」

「俺の名前知っとったん!」

「さっき聞いた」

「さっきかい!将来の夢なー…んーまだはっきりとはしてないけどテニス選手か医者?」

「…(うわあ)」

「それが?」

「私は将来の夢とかあらへんねん。何したいかもわからへん。みんな結構真面目に色々考えてんのに私はまだなーんも見えんの。蛹のまんまなの」

「おん」

「やけどそれがばれへんように成虫の振りして、みんなの中に溶け込もうとして仮面かぶっとんの。それが擬態」

「…」

「わかった?」

彼はうーん?と首を傾げていた。とりあえず説明終わったしもう帰っていいかなと立ち上がるとなぁ、と忍足くんが口を開いた。

「少なくともみんなそういうのあるんちゃう?周りに合わせたりするの普通やろ」

「…かもね」

「俺に擬態してる?って聞いたんはそう見えたからやろ?」

「おん」

「せやったら気にせんでええんやない?」

「私別に気にしてなんか、」

「俺には仮面被りすぎて疲れてるようにみえててんけど」

胡座に両手を後ろについてそう言う彼はまた獲物を見付けた肉食獣みたいな鋭い目をしていた。どっちがほんとの彼なんだろう。

「忍足くんは、」

「ん?」

「私の擬態見抜く時だけそういう顔する」

「へ?」

「すっごい鋭い目、する」

「あ、前嫌いって言うたのそれ?」

「ちゃう。嫌いなんはみんなと一緒にいる時のへらへらした忍足くん」

「…なんや、」

「?」

さっきまで胡座をかいていた忍足くんが立ち上がり私の目の前に立つ。彼の頬はなぜだかほんのりと赤い。

「…それ、愛の告白みたいやん」

「!?ち、ちゃう!」

自分の前以外の俺は嫌いって立派な告白やろ?彼はそう言って私の手を掴む。違うって言ってるのに!

「あ、」

「なに」

「俺自分の名前知らん」

教えてくれへん?と言った彼に私はぽつりと名前を零した。にへらと笑って名前をつぶやく。その顔は嫌いだって言ったのになぜだろう、今は嫌じゃない。
味わうみたいに何度も私の名前を呟く。…紘、紘、紘、紘。
その度に私の頬には熱が上ってなんでよ、こんなのまるで、

「顔赤いで?」

ほんとに好きみたいじゃん。
そっぽを向けば彼が喉でくっくっと笑う。腹立つ。へらへらすんな。

「そういえば自分俺の前で擬態しないようなったなぁ」

「それは…今更猫かぶっても仕方あらへんし…」

「せやったら自然体でいられる相手っちゅーことで」

俺と付きあわへん?と彼が耳元で囁いた。
その後顔を真っ赤にしてへらりと笑い、俺自分のこと結構好きなんやけどと笑った。

今朝まで名前も知らなかった相手なのに、何故か頷いてしまった私も私だ。

私は彼の腕の中で蝶になった。

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