09.星でさえ効かない和らぎ

 三週間、何事もない日が続いた。風車小屋からエレンたちが離れることはなかった。リヴァイはたまに留守にするが短時間だった。調査兵団本部と連絡でも取っているのだろう。何事もないが真琴にとっては平和ではない。リヴァイとは巧くいかず、いがみ合いの日々にへとへとだった。

 昼食後、真琴は男子の寝室を開けた。
「ほーら、掃除するわよ。手伝ってあげるから。毎日リヴァイさんにどやされても懲りないんだから、まったく」
 くつろいでいたと思われる男子たち。何か隠すようにジャンが急に掛け布団を被る。
「か、勝手に開けんなっ。ノックしろっつってんだろっ」

「あーら、失礼。ところで」
 真琴はにやりとジャンに顔を突き出す。
「なーにを隠したのかな? 私に見られたくないもの?」
「ざ、座学の教科書だよ。勉強してんだからほっとけ」

「勉強ね〜」
 さっと真琴は掛け布団を剥いだ。うつ伏せのジャンの胸許に、はみ出している本らしきものが見える。真琴はいかがわしい薄い本を掠め取る。
「ふ〜ん。これが勉強ですか。どういう知識が得られるのですか〜」
 女の表紙の本を摘んだ手を上げて、ぴらぴらと揺する。

「返せっ。まじ信じらんねぇ、この女っ」
 真琴の爪先立ちでも、ジャンの背丈に簡単に奪われてしまった。彼にとっては大事なものなのだろう。何回も読み込んだであろう皺だらけの本が、そう教えてくれた。

 扉口からエレンが顔を出した。頭に三角巾、口許にマスク、手に箒、完璧なまでの掃除夫である。リヴァイの一番弟子かもしれない。――掃除の。
「ジャン。またそんなの読んで。シーツの交換もまだだろ。なにやってんだよ、乾かないだろうが」
「飯のあとくらいゆっくりさせろよ。毎日シーツ変えなくたって死にゃしねぇよ」

「お前、まだ兵長のことがわかんねぇのか。お前の命があるのはな、俺がお前の分もやってるからなんだぞ」
「うるせぇな! てめぇらは俺の母ちゃんか!」
 せめてシーツを直しておけと言い置き、エレンは別の部屋の掃除にいった。

「異常だぜ、エレンのやつ」
 零すジャンを尻目に、真琴は散乱しているゴミを拾う。
「異常なのはあなたたちよ。なんで毎日部屋がこう散らかるかな、もうっ」
 男子部屋だから仕方ないのかもしれないけれど。酸っぱい匂いは耐えられない。
「エレンのベッド周りを見なさいよ。綺麗でしょう。見た目だけでもいいから、片付いてるようにして」
 真琴はジャンに細目し、
「ジャン、シーツっ。薄い本、手放したくないでしょう」

 守るようにしてジャンは本をシャツの中に入れる。ぶつくさ言いつつシーツを直した。
 窓側のベッドにコニーがいる。彼もシーツを直したり、衣類を引っ掛けたりしていた。ふいにサイドテーブルにぶつかり、反動で写真立てのようなものが落ちた。コニーは慌てて拾い、みんなを背にしてベッドに座り込む。

 寂しそうに丸めたコニーの背が気になり、真琴は近づいた。額縁入りの二人の男女の肖像画を眺めている。
「コニーのご両親? こんなことになって心配されてるでしょうね」
 額縁を持つ両手に握力が加わったようにみえた。シンプルな木枠の軋む音に怒りを聴いた。
「父ちゃんは病気で死にました。母ちゃんは……母ちゃんも死んだようなもんだ」

「ごめんなさい。あの、知らなくて」
「母ちゃんは巨人にされた。俺にはもう母ちゃんしかいねぇのに」
 真琴はどきりとした。コニーは母親を巨人にされたという。まさかケニーの持つあの薬か。
 ジャンがしんみりしている。
「思い出すのも恐ろしいぜ。――数週間前、壁内に巨人が出現しときには。ウォールローゼの壁を突破されたかと思ったもんだ。でも違った。いくつかの村で巨人が発生したんだ。そのうちの一つがコニーのラガコ村で、巨人の数とラガコ村の住民の数が一致したんだよな」

「そのうちの一人が母ちゃんだってわかったんだ」
 コニーは言葉は詰まらせ、
「顔に……面影があったから」
「わけわっかんねぇよ。一体どうなってんだよ、壁ん中はよっ」
 悔しげにジャンがゴミ箱を蹴っ飛ばした。

 トラウテの言葉を信じるならば、あの薬は希少だから、いくつもの村の住民を巨人にするのには無理があると思う。この国に何が起こっているのか、コニーの気持ちを推し量ると、蹴飛ばされたゴミ箱から散乱したゴミ屑が、その何かの写し鏡に見えて拾えなかった。
 この世界を知れば知るほど、関われば関わるほど、気が沈んでいく――。

 ※ ※ ※

 納戸には屋根に上がる梯子があった。初日に発見したときから、部下が寝静まった夜にリヴァイはいつも屋根からの景色を眺めていた。今夜も屋根に上がろうと梯子を昇る。先客がいてリヴァイは舌打ちした。
「ここは俺の縄張りなんだが」
 声に驚いて振り返ったのは真琴だった。毎日ぶらさげているペンダントに、何やら小さい物を慌てて詰める。

「何が縄張りよ。みんなの場所なんだから、屋根もみんなのものでしょ」
 唇を窄め、真琴はペンダントを寝間着の胸許の中へ滑らせる。
 口の減らない女だ。リヴァイは一人分の感覚を空けて腰を降ろした。上着がないと少々寒いが、今夜は雲一つなく星がたくさん見える。

「小動物から開放されて、ようやく一息つけるってのに。なぜいる」
「悪かったわね。昼間たまたま納戸で梯子を見つけたの。眺めがよかったから夜にこようと思ったのに」
「それで?」
 真琴は高飛車そうにしているが張りがない。いつも突っかかってくる――リヴァイからであるが――彼女にも孤独を好む日があるのだろう。

「私だって一人になりたいときがあるの。今夜は譲ってもらえる?」
「断る。嫌ならお前が下に戻れ」
 不満そうに真琴が頬を膨らませた。去らないから屋根に居続けるようだ。本当は一人が良いし、二人きりも訳あって気まずいが、静かにしていてくれるなら許すしかないだろう。

 リヴァイは片膝を立てた。その上に頬杖をする。
「そのペンダント。大事なものか」
「まあね」と真琴は胸許を握った。
「惚れた男からの貢ぎ物か」
「ええ。ショーウィンドーに飾られてて、気になってたらあの人がプレゼントしてくれたの」

 あの人とは会長の息子のことだろう。女に金を使ったことのないリヴァイには理解しがたい。贈り物をしたいと想った女に出逢ったこともないが、好いていると買い与えたくなるものなのだろうか。
「やけに高いもんをねだったようだ。遠慮という言葉を知らないらしい。ぼんぼんがいたわしい」

「やだっ、高価なものだったの?」
 胸許から真琴はペンダントを引き出した。リヴァイはちらりと見聞する。やはり彫刻されたペンダントに見覚えがある。が、大量生産されたものかもしれないのだし、根拠はないが。
「目利きが外れた。大したものじゃなさそうだ」
「し、失礼な人っ」

 崖沿いに建つ風車小屋は、屋根から田舎の風景を一望できた。明かりもほぼない。夜虫の鳴き声以外に静寂を邪魔するものもない。ただ壁が、ウォールシーナの高くそびえ立つ壁だけが、どんなに遠くへいっても視界に入る。ずっと窮屈と――空気が悪いとリヴァイは感じて生きてきた。

 真琴は膝を抱える。
「遠くに点々と並んで見えるのは松明よね」
「ああ。壁のな」
「夜にとても映えるけど、私は好きになれない」
「なぜ」
「だって息苦しいんだもの。昼も夜までも、壁を見せつけられて」

 リヴァイは眼を瞠った。切なそうに遠くを眺望している女は壁を息苦しいという。――リヴァイと同じように。
 人類が壁の中へ逃れ百年余り。壁に囲まれているのを誰もが当然と思い、疑問を持たず、鳥になって壁の外側まで飛んでいきたいとも思わず、みんな安穏と暮らしていると思っていたのに、真琴は息苦しいという。

「あ。こうしたら少しはマシかも」
 思いついたように真琴は屋根に仰向きになった。
「危ないぞ。ここの屋根は緩やかとはいえ円形だ」
「でこぼこ屋根だもん、滑らないわよ。――ほら、いい感じ。壁も気にならないわ」
 両腕を広げ、
「素敵。星空に浮いてるみたい」

「そうか。落ちたら崖一直線で浮く体験ができるだろう」
「リヴァイさんも横になったら?」
 真琴の表情が憂う。
「疲れてるんでしょう。その下瞼の黒い隈」

 指摘されてリヴァイは思わず目許を触れる。この隈は長年の苦悩が深く染み込んだものだ。もうシミになっているかもしれない。改善することはないだろう。
「俺は見上げるだけでいい。ガキみたいに寝そべられるか」

 リヴァイは夜空を仰ぎ見た。飯のときも掃除のときも仮眠のときも、いつ襲撃されるかわからないから、常に気を張り巡らせている。星は確かに綺麗だけれど、静寂も確かに悪くないけれど、それでも足りない。緊張をほどくことはできないようだ。

「コニーのことを聞いたの。ひどい話だわ」
「ああ」真琴はよく世話をしてくれている。けれど用心にこしたことはないのでリヴァイは詳細を伏せた。
「みんな明るくみえて重いものを抱えているみたい。私の知ってる年相応の無邪気さがないの」
「わかってる」

「それなら、お掃除のことであまり厳しくしないで。エレンなんて可哀想。男の子なのにあんなにお掃除に熱心で。――いいお嫁さんになれちゃう」
「なぜ説教になる」
「だってリヴァイさんのせいでしょ」
 真琴が向き直ったとき、体重をかけていた踵のレンガが崩れた。短い悲鳴と一緒に崖側へ滑り落ちる。

 気怠く空返事をしていたリヴァイの行動は遅れた。屋根を滑り落ちていく真琴に気づいて、焦り手首を掴む。屋根の端、真琴は真っ暗な崖を宙にしていた。
 疲労した心を休ませるために屋根にきたというのにこれだ。リヴァイはほっとした分と呆れた分の溜息をつく。
「空中浮遊はどんな気分だ」

「忠告を無視して、ごめんなさいっ」
「悪い。手が滑りそうだ。重くて」
「間食やめるっ」
 筋肉のない真琴など軽い。だが手を突いたリヴァイの体勢もそろそろつらいから、意地悪はここまでにすることにした。ぐっと細い手首を釣り上げる。

 とん――と胸板に軟い振動が。勢いをつけすぎたか、屋根の上で抱き合う態になった。
「あ、ありがとう。口から心臓が飛び出るかと思った」
「……」
「さすがね。く、訓練をしている人は違うんだ。あんな軽々……」
 リヴァイが真琴を包んだまま離れないから怪訝そうにする。胸許を軽く押してきた。
「――リヴァイさん? もう大丈夫だから」

 リヴァイは真琴の温もりを離せないでいた。どこか懐古を感じるも、自分でも混乱する。真琴の華奢な両手で胸許を拒否されると、より強く抱きしめていた。真琴のことだから引っ叩かれるだろうか。
「……どうしたの」
 けれど真琴は叩かなかった。リヴァイの好きにさせた。

 自分でも驚いて眼を瞠っている。しかしリヴァイは真琴を離せない。女の柔らかさを離せない。女の体温を離せなかった。
「……悪い」
 掠れ声はリヴァイのもの。だからといって、真琴のたおやかな背中を抱きしめる腕は弛まない。
「……いいの。こういう夜もあるわ。リヴァイさんならなおさら。……疲れてるのよ」
 思いやられ、真琴の頭が肩にもたれる。細い癖のある髪の毛がほんのり甘い。リヴァイはきゅっと瞳を瞑る。

 ――疲れてる。そうリヴァイはずっと疲れている。正確な日付を思い出せないくらいずっと昔から。
 ここ一ヶ月はさらにひどい。団長のエルヴィンは巨人によって片腕を失い、調査兵団の策略も下手をすれば窮地に追いやられる。熟練兵士は減った、戦力のある兵士は少ない。各自で判断し各自で動く。脳は常にフル回転。疲れている。――だから瞬く星に縋ったのに。

 けれど女の――真琴の温もりと香りと懐古は、すり減った精神を和らげてくれた。星でさえ効かなかったのに和らげてくれた。
 真琴を好いているのではないとリヴァイは思う。初日の真琴への失態の影響か、ともすれば男は女が必要なのだろう。
 真琴の手が迷うようにリヴァイの背に廻った。軽く触れた指。ますます離せなくなるだろう、とリヴァイはよわる。
 そもそも拙いのではないか。リヴァイはいいとしても、真琴には惚れた男がいるのだから。

「よしよし」
(は?)
 幼児をあやすように背中をぽんぽんされ、リヴァイはぽかんと口を開けた。
「小さいときね、お母さんがよくこうしてくれたの。泣いていいのよって」
 短兵急に真琴を引き剥がす。
「誰が泣くか」
「違うの?」
 真琴はぽかんとした。

 心が衣服ごしに伝わらなかったことにリヴァイは少々腹を立てた。なぜ腹が立つのか自分で理由がわからないことにも腹が立つ。
「見当違いに笑いもでねぇ。だいだいお前、婚約者がいるだろう。男に腕を廻しやがって、気の多い」
「あ、あなたが離してくれなかったんじゃない。気が多いって――自惚れないでよね」

「ガキに自惚れる? 百年経ってもないだろうな」
「あなたねー!」
 不満そうな真琴をリヴァイは無視して腰を上げた。
「冷えた。戻る」
 リヴァイは納戸へ続く梯子を降りた。外気で身体は冷えた。けれど芯は温かみが残っていた。


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mokuji
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