偶然に心が痛む
「…本当に、ごめんなさい」
部屋を間違えてしまった私に彼は驚いたようで、スープを零させてしまうという失態を犯してしまった。そんな私を、病室の彼は優しく許してくれた。…でも、彼の目には光がなく、まるで感情のないロボットのようだ。口元は確かに弧を描いているのに、闇の色をした目は笑っていない。私はタオルを畳んで、バッグにしまった。
私は深く礼をして、部屋を飛び出した。
かなり、失礼な行動だと我ながら思う。閉めた扉の前で、何故か上がっている自分の息を整え、落ち着く。
"この部屋に居たくない"
そんな感情が私の中でぐるぐると回る。
なんで?ただの、病室じゃん。なんで、こんな胸が痛むの?
閉め切ったカーテン
遅すぎる朝食
枯れた花の刺さった花瓶
ちぎれた花びらの捨てられたゴミ箱
全部が苦しくて、 哀切この上ない。
…なんで私、たった一病室のことをこんなに気にしているんだろう。
はあ、とため息を吐き、とぼとぼと歩き出す。目的の場所はそれほど遠いわけではなく、すぐに着いた。
『201 東野拓哉』
名前をしっかり確認して、無言で扉を開けた。そこには、見慣れた兄の姿があった。
「あー千子。毎日毎日ありがとな」
そう陽気に笑う兄に、私は苦笑をこぼした。吊るされた包帯を巻いた足のせいだろうか、滑稽に見えて仕方ない。
「まだ二日目でしょ?もー、部屋間違えちゃったし…」
ため息を吐く私に笑い出す。…頭に来るなあ。ずかずかと病室に入り、不愉快なその頭をぺしり、と叩く。兄は小さく、いて、と声を出した。ふん、いい気味である。
「ってぇなあ…病室、どんな人だった?」
頭を大げさにさすりながらそう言う兄。もう一発ひっぱたいてやりたいくらいだが、ここは我慢して、渋々話し出す。
「んー、なんかねえ、不思議な人」
「はあ?」
私の言葉に、兄は意味がわからないという顔をした。失礼極まりないと思いつつ、話を続けた。
「ちょっと…もう一回会ってみたいような」
「ん!?は!?待て男か!?」
私がぼそっと呟いた一言に少し焦ったように反応する兄に冷ややかな視線を浴びせる。
いちいちうるさい奴だ。
持たされていた果物を小さな机に置き、ベッドの横の椅子に腰をかけた。
「男だよ、もう」
呆れ気味にそう言うと、兄は硬直した。けれどすぐに震えだして、声を上げる。
「…俺は認めないぞ!」
「病室では静かにー」
はあ、とため息をついて、さっきのことを思い出した。
私と、同い年くらいの男の人。彼はただただ私に驚いたような視線を向けていた。
…もしかしたら、私に驚いていたわけではないのかもしれない。人が入ってきたことに、驚いていたのかも。
「はあー…じゃあまたくるわー」
深くため息を吐いて、椅子を立った。
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