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 破面篇


息が、出来ない。
口を開ければ、酸素の代わりに入るのは、水。
口を開けても開けても、もがいてももがいても、体内に入ってくるのは水だけ。
苦しい。
苦しくて、苦しくて。
俺はずっと、息が出来ない。

「――っ!!」

弾かれてように目を開けて、何分も息が出来なかったように、身体が酸素を求めて呼吸をする。
ばくばくと耳元で鳴る心臓と、びっしょりと汗で濡れた浴衣と額に張り付く前髪は、まるで本当に水の中に沈んでいたようだ。
もしかしたら、本当に水の中に入っていたのかもしれない。
自分が夢遊病だったとしても、驚きはしない。

彼女のいなくなった部屋は、自分一人で住んでいた頃に比べて随分広く感じる。
彼女のものが未だに残っていて何も片付けてはいないのに、二人で暮らしていたこの部屋がまるで知らない場所のように感じてならない。
日当たりも悪くなったように感じるのは、手入されないまま伸び放題になった、庭の梅の木の所為かもしれない。
彼女は春先に目白が梅の蜜を吸いにやってくるのを、毎年楽しみにしていた。
今年は来ていたのかは、分からない。
梅が咲いていたかどうかも、覚えていない。

着替えの浴衣を取り出そうと箪笥を開けて、ほんの僅かに残る彼女の香りが鼻を擽った。
同じ洗剤を使っていた筈だけれど、彼女からはいつも仄かに違う香りがしていた。
それが花木の香りなのか、石鹸の類なのか、それは分からない。
あとどれくらい、この香りを嗅ぐことが出来るだろう。
この香りが消えた頃、俺はどうなっているだろう。

藍染と空座町で戦ったあの日。
鏡花水月に踊らされて、雛森を刺した俺は、怒りと憎しみに狂って、藍染に斬りかかった。
藍染を斬る前に、藍染に斬られそうになったその時、彼女が目の前に現れた。
その速さは、藍染すらも反応出来なかったらしく、その表情は驚きに染まっていた。
俺を斬る筈だった藍染の刀は、彼女を斬っていて。
彼女は自身の身体を貫いているその刀を、握ったまま絶命した。
死して尚、藍染の刀を離さず、その顔に僅な笑みを浮かべたまま。
その葡萄色に俺を映したまま。

「たい、ちょう、」

彼女の唇が、確かにそう動いた。
俺を護って、彼女は死んだ。
彼女の斬魄刀、明鏡止水が水となり蒸発して消えていったのを目にして、本当に彼女は死んだのだと、思い知らされた。
その後のことは、何も覚えていない。
気が付けば戦いは終わっていて、気が付けば藍染は投獄されていた。
それからの日々の記憶は全て断片的で、朧げだ。

彼女の生前の希望で、彼女の遺体は阿近の手によって隅から隅まで解剖されたと言う。
自身が死んだ後、役立てられるものは全て役立てて欲しい。
昔からの約束だったそうだ。
確か、阿近は彼女を解剖する前、俺に許可を取りに来た。
自分がその時、何と言ったのかは分からない。
死神が死ぬと、身体は霊子に還り、尸魂界の一部になる。
身体が霊子になる明確な期限はない。
死んですぐに霊子となる魂魄もいれば、何日か身体を保ったままの魂魄もいる。
彼女は、阿近に解剖されても未だ身体を保っていた。
阿近は、どのような気持ちで死んだ彼女を迎え、その身体を解剖したのだろう。
愛する女の身体に、一体どんな気持ちでメスを入れたのだろうか。

「多分、持って一日です」

解剖を終えて、俺の元に彼女を連れてきた阿近は言った。
霊子が崩れかかっていると。

「手脚の筋肉が、全部ずたずたでした」

彼女の体内の監視蟲の記録によれば、ハリベルの附属官三人と戦った彼女はこれまでになく消耗をしていて、最後は手脚の筋肉は切れ、内臓はいくつか損傷し、霊圧も殆ど空っぽの状態だったと言う。
その後は少ない時間で回復した霊圧を、副隊長達と重傷を負った浮竹の治療に使った。
俺を庇いに来た彼女は、既に動ける状態ではなくて。
恐らく、切れた筋肉の代わりに、短い時間で回復したほんの僅かな霊圧を使い、身体を動かしたのだと言う。

「こいつは幸せだったんでしょうね。あんたを庇い死ねたんだ。馬鹿みたいに、こんな顔しやがって」

彼女を自宅に連れ帰り、縁側で座っていると、ふと阿近の言葉を思い出す。
そして、動かなくなった彼女の顔を今日までまともに見ていなかったことも思い出した。
怖いとか、悲しいとか、何の気持ちもなく、空っぽのまま、自然と彼女の顔に視線が向く。

「……、」

彼女は、微笑んでいた。
優しく、温かく、穏やかに、安らかに。
春の木漏れ日のように、野に咲く小さな花のように、夜を照らす月のように。
彼女は、幸せそうに微笑んでいた。
――ああ。

「っ、」

生きていた時よりも白い彼女の頬に掌を滑らせる。
氷よりも冷たい、死の冷たさ。
両手でその頬を包むけれど、冷たくて、冷たくて。
瞼は閉じられたままで、葡萄色は俺を見ない。
もう二度と、あの葡萄色は俺を映すことはないのだ。
隊長と、彼女が呼ぶことはない。
もう、二度と。
頬を包む両手が震えだし、その真っ白な頬に雫が落ちる。
彼女の目尻に落ちたそれが伝っていく様子は、まるで彼女が泣いているようだった。
きっと、彼女は言うだろう。

「私は幸せです」

と、幸福で堪らないとでも言うように笑って。
でも、俺は。
俺は、お前がいなくなって俺は。
全身が、吐き出す息が、震える。

「……、…周、」

絞り出した声は、掠れて弱々しいものだった。
多分、彼女が死んでから初めて口に出した、その名。
口に出してしまえば、堰を切ったように色々なものが溢れて止まらなかった。

「周」

全てだった。

「周」

お前は俺の、全てだった。

「周」

お前がいなくなってしまったら、俺は俺ではなくなる。

「周」

何もない、もうなにも。

「周、周」

何度呼ぼうとも返事をしない彼女に、縋りつく。

「っ!」

手が空を切り、彼女の身体が透けてきているのを目にする。
きらきらと、霊子の粒が、まるで月に導かれるように。

「だめだ…!」

必死にそれを掴もうとするも、手には何も入らない。
もう決して手に入れることは出来ないそれは、あまりに美しく煌めいていて。

「周!」

彼女の頬を包んで、また呼びかける。
返事は返ってこないのに、何も変わりはしないのに。

「っ、」

しかし、とうとう顔の霊子も崩れていく。

「いかないでくれ、」

いかないでくれ。

「頼む…!」

一人でいかないでくれ。
俺を置いていかないでくれ。

「周、周…いくな!俺を、俺は…」

いつの間にか、片手に斬魄刀を持っていた。

「――周」

何だって良い。
お前がいないのなら、何だって、どうなろうと構わない。
何故なら俺は、お前に会う為に生まれてきたのだから。

そこから、また記憶が朧げだ。
覚えているのは、いつの間にか松本が傍にいたこと。

「周は、生きて欲しいから、隊長を庇ったんですよ…!」

そう言って涙をぼろぼろ溢す松本を見て、俺は何の気持ちも湧かなかった。
全てを失った俺には、もう何も分からない。
分からなくて良い。

周、お前は今何処にいる?
俺のいないところで、お前は何を見て、何を感じている?
いつになったら、俺はお前に。

あの時から、俺はずっと、息が出来ない。
吸おうども吸おうども、もがけどももがけども、底のない暗闇に沈んで、沈んで。
もう二度と、水面に出ることは出来ないだろう。
眩しさに目を細め、胸一杯に息を吸い込む感覚を、思い出せない。
彼女に溺れたまま、俺は、ずっと、息が出来ない。



もしも原作のあのシーンに主人公がいたら


もしもこうだったら、と言う別の世界線の妄想です。
雪解け本編では死神が死後輪廻転生すると書いたのに、ここでは霊子に還ると書いたり、都合良くころころ変えて読みづらかったらすみません。


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