「これ、図鑑で見たことがあります」
待っていろと指示をしなかったからか、彼女は後ろを付いて来ていたらしい。
どんなものか気になり、振り返ろうとした時、
「うわっ!!」
ずるっと、足が滑り、身体がぐらりと傾く。
視界が反転して、思わず目を瞑った。
が、強く手を引っ張られる感覚に目を開ける。
「あ、こん……」
彼女が、俺の右手を握っていた。
どうやら俺は、崖から足を滑らせたらしい。
生い茂った草で気が付かなかったが、崖のすぐ傍にいたのだ。
「すみません、私が急に声をかけたから…」
「俺が崖に気付かなかっただけだ」
言葉を返すが、呑気に会話をしている状況ではない。
「っ……」
薬草の汁で手袋が滑り、彼女の手を握っているのも中々きつい。
彼女も同じなようで、その腕は小刻みに震えている。
「すみません、引き上げたいのですが…」
どうやら彼女の力では無理らしい。
徐々に彼女の身体が此方へ下がってきているのは、気の所為ではない。
「離せ。俺は下から帰る」
下を見てみると、落ちて死ぬような高さではない。
何とかなるだろう。
「流石に無傷とはいきません」
「死ぬことはないだろ」
「貴方の身体能力では分かりませんよ」
こんな時でも苛つくことを言う。
けれど言い返している時間が惜しい。
「良いから離せ。お前まで落ちるぞ」
「離すくらいなら、私も落ちます」
「はあ?」
「馬鹿じゃねーの」と、言いかけた刹那、彼女の口から「あっ」と小さな声が漏れて、彼女の身体が落ちて来た。
そのまま、あっと言う間に落ちていく。
一瞬のことだったが、何か白衣を引っ張られたような感覚と遠心力を感じた後、鈍い音と共に地面に落ちた。
「ってぇ……」
全身が痛んだが、落ちた先の土が柔らかかったおかげで大したことはない。
彼女は…と振り返ると、俺とは違い受け身を取ったのか、何事もなかったかのように壁に凭れ掛かって座っていた――が、その下半身に目が止まる。
「お前…!!」
彼女の袴が、太腿の辺りから引き裂かれ、白ではなく真っ赤な肌が覗いていた。
駆け寄ると、その太腿が深く抉れ、出血している。
落ちてきた崖を見上げて、はっとした。
「お前、まさか…!?」
落ちていく間の一瞬、何か引っ張られたような気がした。
彼女が俺を引っ張ったのだ。
「貴方の身体能力では、避けられるとは思えませんから」
崖から突き出た大きな木の根が、恐らく俺の落ちる軌道にあった為に、庇ったらしい。
「私は避けられると思ったのですが、出来ませんでした」
避けようとはしたらしいが、空中では思うように身体を動かせなかったのだろう。
「お前なぁ……」
何と言って怒りをぶつけたら良いか分からない。
確かに俺も避けられなかったとは思う。
けれど、そういう問題ではない。
「すみません」
変わらず笑って謝るその顔を、ぶん殴ってやりたくなる。
白衣を切り裂いて、太腿の付け根を強く縛り、止血をする。
彼女の顔が、一瞬痛みに歪んだ気がした。
釣られて、怒りなのか、焦りなのか、自分の顔まで歪む。
「そんな顔をしないでください。痛みは殆どありません」
「阿保、アドレナリンが出ているだけだ」
「……りん?」
いつもの調子で首を傾げる彼女だが、傷からの出血は続いている。
とても自力で歩けるとは思えないが、彼女ならば歩き兼ねない。
伝令神機で助けを呼ぼうかと考えるが、今日局長と副局長は朝から研究室にこもりきりだったことを思い出す。
「阿近…?」
不思議そうにする彼女の膝の下に片手を差し込み、もう片方の手で背中を支え、持ち上げる。
彼女が自分より少しでも小柄で良かったと思う。
「自分で歩けます」
「歩けば出血が止まらねーんだよ」
背負った方が歩き易いが、心臓より下に患部を持っていくのは良くない。
顔は見えるし近いし不愉快この上ないが、この状況では仕方がない。
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