雪解け(本編壱) | ナノ
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 08 君の温もりが消えない


定時丁度に乱菊さんが帰り、それに続いて執務を切り上げようとしたところに、地獄喋が入ってきた。
十番隊が受け持つ流魂街の地区で、虚が発生したとのことだった。

「荻野、定時を過ぎたところで悪いが、行けるか」
「部隊が残っているか確認してきます」
「ああ、頼む」

受け持つ部隊の隊士は全員残っていて、すぐに出動した。
比較的虚の出現率が多く、小さな集落がいくつかある場所だ。

「住民に被害が出ないよう、注意をしてください」
「はい!」

虚は二体だったが低級で、簡単に片付く筈だった。
しかし、気が付かなかったことがあった。

「三席…!」

十二席の隊士が、体調を崩していたらしい。
今朝健康状態を確認した時は、異常はなかった筈。
出動する前に気が付いていれば、こんなことにはならなかったのに。
足元のおぼつかない彼を狙い、虚の触手が伸びて、瞬歩で間に入る。

「っ!」

咄嗟に放った鬼道は命中し、耳を劈くような悲鳴を上げて虚は消えていった。

「怪我はありませんか」
「荻野三席、血が…」

十二席の彼は申し訳なさそうに謝って、私の掌に視線をやる。
血が滴って、白い足袋に赤い点を作った。

「大丈夫です、浅いですから」

放った鬼道の軌道から僅かに外れた虚の触手が、少し掠っただけの傷。
実際に浅く、四番隊に行くまでもない。
十二席の彼が心配そうに眉を下げるものだから、回道で簡単に止血を行う。

「四番隊に行きましょう」
「三席、俺が付き添います」
「すみませんが、宜しくお願いします」

熱のある十二席に五席を付き添わせ、先に帰還するよう指示を出す。
伝令神機でその旨を報告すれば、すぐに彼から了解の文章が返ってきた。
集落の建造物被害は予想よりひどくはなったが、復旧作業に一時間程かかった。
隊舎に戻る頃には、陽はすっかり沈んでいて、夜番の隊士が出勤して来ていた。

「任務完了、全員帰還しました。五席から連絡があり、十二席は明日も休ませた方が良いとのことです」

隊舎に残っていた彼に報告をすれば、書類から顔を上げて、不機嫌そうな表情をする。
眉間の皺が、いつも以上に深い気がする。

「また怪我をしたのか」

その低い声に掌を見れば、止血が甘かったのか、傷が開いている。

「負傷していません」
「出動する前には無傷だっただろう」

何故彼がこんなにも怒っているのか、理解が出来ない。
骨にも到達していない程の傷に、自分で治療出来る程度の傷に、何故そんなに怒る必要があるのだ。

「任務を成功させて、他の隊士に負傷者がいなければ、それで良いと思ってるのか」
「何か問題がありますか」
「お前が負傷してるだろ」
「浅いです。負傷のうちに入りません」
「浅いとか深いとか、そう言う問題じゃねぇ」

負傷者が零ではないことに腹を立てているのだろうか。
彼に怒られることは初めてで、いつにも増して鋭く向けられた翡翠色に、早く此処から立ち去りたい衝動に駆られる。

あの人は、私が怪我をした時、悲しそうに眉を下げた。
そんな顔、滅多にしないのに、初めてその表情を見た時、ひどく動揺したのを覚えている。
そんな表情をして欲しくはなくて、二度とそんな表情をさせまいと誓った。
第一、あの人に救われた命なのだから、大切にしないわけがない。
あの人が救ったこの命を大切にしてきたし、大切に思ってきた。
けれど、今は?
あの人がいなくなって、それから?
大切にする、大切に思う、その理由は?
私の命に、価値があるだろうか。
こんな風に怒られる価値が、あるのだろうか。

「それから、こういう時くらいその顔はやめろ」

そんなことを言われるとは思ってもいなくて、思わず、言葉を失う。
今まで誰にも、言われたことが無かったから。
それでも、表情は変えなかった。
変えられなかった。

「……今日は帰ります。報告書は明日作成します」

これ以上、此処にはいられない。
これ以上、この瞳で見られたら、冷静でいられなくなる。
開きかけた掌の傷が、浅い筈なのに、何でもない傷の筈なのに、何故かやたらと痛んで、それを紛らわすように下唇を噛んだ。

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