定時丁度に乱菊さんが帰り、それに続いて執務を切り上げようとしたところに、地獄喋が入ってきた。
十番隊が受け持つ流魂街の地区で、虚が発生したとのことだった。
「荻野、定時を過ぎたところで悪いが、行けるか」
「部隊が残っているか確認してきます」
「ああ、頼む」
受け持つ部隊の隊士は全員残っていて、すぐに出動した。
比較的虚の出現率が多く、小さな集落がいくつかある場所だ。
「住民に被害が出ないよう、注意をしてください」
「はい!」
虚は二体だったが低級で、簡単に片付く筈だった。
しかし、気が付かなかったことがあった。
「三席…!」
十二席の隊士が、体調を崩していたらしい。
今朝健康状態を確認した時は、異常はなかった筈。
出動する前に気が付いていれば、こんなことにはならなかったのに。
足元のおぼつかない彼を狙い、虚の触手が伸びて、瞬歩で間に入る。
「っ!」
咄嗟に放った鬼道は命中し、耳を劈くような悲鳴を上げて虚は消えていった。
「怪我はありませんか」
「荻野三席、血が…」
十二席の彼は申し訳なさそうに謝って、私の掌に視線をやる。
血が滴って、白い足袋に赤い点を作った。
「大丈夫です、浅いですから」
放った鬼道の軌道から僅かに外れた虚の触手が、少し掠っただけの傷。
実際に浅く、四番隊に行くまでもない。
十二席の彼が心配そうに眉を下げるものだから、回道で簡単に止血を行う。
「四番隊に行きましょう」
「三席、俺が付き添います」
「すみませんが、宜しくお願いします」
熱のある十二席に五席を付き添わせ、先に帰還するよう指示を出す。
伝令神機でその旨を報告すれば、すぐに彼から了解の文章が返ってきた。
集落の建造物被害は予想よりひどくはなったが、復旧作業に一時間程かかった。
隊舎に戻る頃には、陽はすっかり沈んでいて、夜番の隊士が出勤して来ていた。
「任務完了、全員帰還しました。五席から連絡があり、十二席は明日も休ませた方が良いとのことです」
隊舎に残っていた彼に報告をすれば、書類から顔を上げて、不機嫌そうな表情をする。
眉間の皺が、いつも以上に深い気がする。
「また怪我をしたのか」
その低い声に掌を見れば、止血が甘かったのか、傷が開いている。
「負傷していません」
「出動する前には無傷だっただろう」
何故彼がこんなにも怒っているのか、理解が出来ない。
骨にも到達していない程の傷に、自分で治療出来る程度の傷に、何故そんなに怒る必要があるのだ。
「任務を成功させて、他の隊士に負傷者がいなければ、それで良いと思ってるのか」
「何か問題がありますか」
「お前が負傷してるだろ」
「浅いです。負傷のうちに入りません」
「浅いとか深いとか、そう言う問題じゃねぇ」
負傷者が零ではないことに腹を立てているのだろうか。
彼に怒られることは初めてで、いつにも増して鋭く向けられた翡翠色に、早く此処から立ち去りたい衝動に駆られる。
あの人は、私が怪我をした時、悲しそうに眉を下げた。
そんな顔、滅多にしないのに、初めてその表情を見た時、ひどく動揺したのを覚えている。
そんな表情をして欲しくはなくて、二度とそんな表情をさせまいと誓った。
第一、あの人に救われた命なのだから、大切にしないわけがない。
あの人が救ったこの命を大切にしてきたし、大切に思ってきた。
けれど、今は?
あの人がいなくなって、それから?
大切にする、大切に思う、その理由は?
私の命に、価値があるだろうか。
こんな風に怒られる価値が、あるのだろうか。
「それから、こういう時くらいその顔はやめろ」
そんなことを言われるとは思ってもいなくて、思わず、言葉を失う。
今まで誰にも、言われたことが無かったから。
それでも、表情は変えなかった。
変えられなかった。
「……今日は帰ります。報告書は明日作成します」
これ以上、此処にはいられない。
これ以上、この瞳で見られたら、冷静でいられなくなる。
開きかけた掌の傷が、浅い筈なのに、何でもない傷の筈なのに、何故かやたらと痛んで、それを紛らわすように下唇を噛んだ。
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