「ならば尚更、あの家に戻る必要等ないだろう。お前の案ずる弟のことも、朽木に嫁げば問題ない。花乃木家を潰すことはせぬ」
話にならない。
忘れていた、彼は少しずれいて、時折話が通じないことがあるのだ。
問題だらけだ、彼は何も分かっていない。
「山吹のことも大切だけれど、そうではないのよ…」
大切な弟、幸せであって欲しい人。
けれど、それだけじゃない。
私は、貴方を。
貴方だけは――、
「私は人を不幸にする。憎しみを生む。疫病神のような女なのよ」
言葉にして、目頭が熱くなる。
「不幸にしたくないの。紫蘭、貴方だけは、幸せであって欲しいのよ」
涙が零れる。
この場所では、彼の傍では、私は虚勢を張れない。
「貴方を不幸にしたくない。貴方に憎まれたくない。私は…貴方だけには…あなただけは……!」
嗚咽で、言葉が紡げなくなる。
唯一、私が死ねなかった理由。
貴方がいたから、生きてこれた。
貴方との時間が、私の生きる糧だった。
貴方が、何より大切だった。
貴方に憎まれたら、私は。
だから、だから私は――。
「……!」
彼の手が伸びて、私の手に重なる。
まるであの日のように。
「お前と出会い、同じ時を過ごす間、私は一度として、不幸等感じたことはない。お前を憎いと思ったこともない」
視線を上げれば、黒い瞳と合う。
ああ、傘越しに、彼はこんな風に私を見ていたのか。
今更、雨音がない為に、彼の声が鮮明に耳に届いていることに気が付く。
「お前の言う通り、私が不幸になったとして、」
その言葉だけで、胸が潰れてしまいそうだ。
眉を寄せれば、彼のもう片方の手が、私の頬に滑る。
初めて会った時は、私より少し大きいだけだったその手は、私の顔を包んでしまう程、大きくなっていた。
「それを忘れてしまう程、お前は私を幸福にする」
瞬きも、呼吸も、出来なかった。
数秒が、まるで永遠のように思えた。
「お前の傍は、幸福だ」
ああ、私は。
「貴女はどうして生まれたの」
姉様の言葉が蘇る。
ずっと、人を不幸にすることしか出来ないと思っていた。
私の存在は、不幸と憎しみしか生まないのだと。
それでも、大切な人には幸せであって欲しくて、幸せになって欲しくて。
私は、彼を、この人を、幸せにすることが出来ていたの――?
不幸しか与えられない私が、こんな私が、貴方を、幸せに――?
「蓮華――否、紬。私の許に来い。今度は私が、お前に幸福をやろう」
違う、違うわ。
私はいつも、貴方の傍で幸福を感じていた。
貴方はずっと、私に幸せを与えてくれていた。
誰でも良い、たった一人だけで良い。
私を、望んでもらいたかった。
私が生きていることを、生まれたことを、喜んでくれる誰かが欲しかった。
生きて良いのだと、生まれてきて良かったのだと、そう思いたかった。
ああ、私は。
今まで生きてきて、初めて思う。
初めて感じる。
涙と呟きが、同時に零れた。
「生まれてきて、良かった」
私が生まれたのは、きっと――、
この人を、幸せにする為だったとしたら。
そうだとしたら、私はとても嬉しい。
初めて流した嬉し涙は、温かくて、まるで溢れた幸福のように優しかった。
頷いたら、彼は何と言うだろう。
彼は、笑ってくれるだろうか。
ああきっと彼は、想像していたように、美しく、優しく、少し儚く、微笑むのだろう。
私はもう、雨を待たない、焦がれたりしない。
傘の代わりに、この手を握って、そうして歩いていけたら、世界で一番、誰より何より、しあわせだろう。